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九十キロで走行する十トンの鉄の城に対し、剥き出しの身体で仕掛ける、死と隣り合わせの行為。
バイクは一瞬で前方に躍り出ると、香のトラックを引き離す。赤く流れるテールランプが、暗闇の中で軌跡を描く。
「なんなのよ……あいつ……!」
ステアリングを握る手が、怒りと恐怖で激しく震える。
激しい衝撃で香の脳内に、ある冷徹な事実が滑り込んできた。
追い越し車線。深夜3時。
もしあのまま、コンマ数秒の微睡みが数秒の「睡眠」に変わっていたら。
十トンの巨体は緩やかに、しかし確実に左へ流れ、走行車線の車を巻き込むか、あるいは右のガードレールを粉砕して対向車線へ躍り出ていたはずだ。
香はバックミラーに目をやった。
前方を走るバイクは、もはやテールランプの赤い点にまで遠ざかっている。 彼は、気づいていたのだ。
並走した際、窓の向こうでガクンと首を落とした香の姿を。あるいは、車線の維持がわずかに甘くなったその「死の兆候」を。
言葉も届かない、クラクションすら意味を成さない高速道路上で、彼が香を、そして周囲の命を救うために選んだ唯一の手段。
それが、死を覚悟して片足を放し、鉄の塊を蹴りつけるという、あまりにも乱暴で、あまりにも純粋な「警告」だった。
「……あ」
喉の奥から、乾いた声が漏れた。ドアに残ったであろう凹みは、彼が香に叩きつけた命の重さそのものだ。
かつて、香が「不良」と呼ばれていた頃、周囲の大人たちが注いでくれたのは「正解」を押し付けるための説教か、軽蔑の視線だけだった。
香の心に触れようとする者など、一人もいなかった。
けれど、今、暗闇の中で名前も知らない誰かが、命を懸けて香の魂を現世に引き戻した。そこには顔色をうかがうような打算も、偽善もない。ただ「生きろ」という、剥き出しの意志だけがあった。
香は震える手で、もう一度ステアリングを握り直した。
今度は、恐怖や怒りからではない。自分に託された命の重さを、改めて噛みしめるための震えだった。
「ありがとう……」
届くはずのない言葉を、フロントガラスに向かって呟く。眠気は完全に霧散していた。香は、遠く消えていった赤い光を追いかけるように、静かにアクセルを踏み込んだ。
自分を信じて道を譲ってくれた誰かのために、そして、再びこの道を走り続
ける自分のために。




