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「眠くなったら止まれ」

男の口元が、ほんのわずかに動いた。


笑ったのかもしれない。


けれどそれは、誰かに愛想を返すための笑みではなく、長い夜道で偶然すれ違った光を見るような、静かな表情だった。


「君、案外しつこいな」


「悪かったな」


香が即座に返す。


男は数秒だけ考えるように沈黙し、それからレザージャケットの内ポケットを探った。


油で少し角の潰れたメモ帳。


そこから一枚を破り、ボールペンで数字を書きつける。


乱暴なくせに、不思議と読みやすい字だった。


香へ差し出す。


「仕事中しか出ない」


「……十分」


受け取った紙は、まだ男の体温を少し残していた。


そこには番号の下に、短く一行だけ書かれている。


『眠くなったら止まれ』


香は思わず小さく息を漏らした。


「名前は?」


訊ねると、男はヘルメットを被りながら少しだけ空を見た。


「黒崎」


短い返答。


「香」


「知ってる。さっき呼ばれてた」


そう言って、黒崎はバイクへ跨がる。


香は紙を握ったまま、その背中を見ていた。


大型トラックとは違う、孤独を切り裂くような細いテールランプ。


けれど、その後ろ姿には、自分と同じ種類の静けさがあった。


エンジン音が高まり、車体がゆっくり動き出す。


「香」


不意に、黒崎が最後に一度だけ振り返る。


「君はもう、自分で走ってる」


その言葉は、説教でも慰めでもなかった。


ただ、長い道を走ってきた者だけが知っている事実を、静かに置いていくような声音だった。


次の瞬間、黒いハーレーは夜明けへ向かって走り去る。


香はしばらくその場に立ち尽くし、やがて掌のメモを見下ろした。


紙切れ一枚。


たったそれだけなのに、胸の奥のどこかが、微かに熱を持っていた。


遠くで朝焼けが始まる。


香はその紙を丁寧にツナギの胸ポケットへしまうと、銀色の巨体へ向き直った。


まだ道は続いている。


けれど今日のハイウェイは、ほんの少しだけ違う景色に見えた。




東の地平線から、朝の光が溢れ出し、パーキングエリアのコンクリートを白々と照らし出していく。


香は、黒崎の残した排気音の余韻が完全に朝の空気に溶けるまで、その場から動けずにいた。


ツナギの胸ポケットに触れると、カサリと小さな音が返ってくる。


そこに収まった紙切れは、たった数桁の数字と、ぶっきらぼうな一言が書かれているだけだ。


それでも、確かに男の体温を宿していたその破片は、今の香にとって、どんなお守りよりも確かな重量感を持っていた。


「……眠くなったら止まれ、ね」


小さく呟いた言葉は、乾いた朝の風にさらわれて消えた。


ふっと口元が緩む。


それは誰かに見せるための愛想笑いではなく、自分の内側から自然と湧き出した、ひどく不器用で、けれどひたすらに純粋な微笑みだった。


相棒の元へと歩き、運転席のドアの前に立つ。


外灯の下で見た時よりも、朝光に照らされたその凹みは生々しく、痛々しかった。


しかし、その歪んだ鋼鉄の肌を見つめる香の瞳に、もう恐怖や動揺の色はない。


「君はもう、自分で走ってる」


黒崎の最後の言葉が、エンジンの始動音とともに、再び香の脳裏でリフレインする。


セルモーターが回り、十トン超の排気量を誇る銀色の巨体が、重厚な地鳴りのような産声を上げた。


その激しい振動がシートを通じて身体に伝わった瞬間、香の背筋が自然と真っ直ぐに伸びる。


フロントガラスの向こうには、朝靄を切り裂いてどこまでも続く、黄金色に染まったアスファルトの道。


「よし、行こう」


ギヤをローに入れ、サイドブレーキを解除する。


クラッチを繋ぐ足にも、ステアリングを握る両手にも、迷いは一切なかった。


誰のためでもない。


自分の意志で、自分の腕で、この巨大な塊を走らせる。


目的地までは、まだ数百キロ。


けれど今の彼女には、並走する鉄の群れも、時折バックミラーをよぎる孤独な光も、すべてが自分を祝福する景色に見えていた。


加速車線を経て、香は再び、沈黙と速度が支配するハイウェイへと飛び込んでいく。


胸ポケットの小さな温もりを相棒に、彼女は朝の光の粒子を浴びながら、未だ見ぬ地平線の向こうへと、力強くアクセルを踏み込んだ。


【了】



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