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夕食を食べ終え風呂に入り、寝間着に着替えて布団に入ったころには、ぽつ、ぽつ、と瓦を叩く雨音が聞こえ始めていた。それだけなら眠りを誘うような静かな音だったのに時間が経つにつれてその雨はまるで別のものに変わった。屋根を叩く音は次第に激しさを増し、ばらばら、ざあああ、と家全体を包み込むような轟音になっていった。古い木造の祖母の家は強い雨が降ると屋根や柱がわずかに軋み、樋を流れ落ちる水の音まで家の中に響いてくるのだが、その夜はそれが異様なほど大きく、まるで家そのものが雨の中に沈み込んでいくような錯覚さえあった。

 遠くで雷が鳴った。腹の底まで響くような低い音がごろごろと空の奥を転がっていく。窓の外は真っ暗だったが、ときおり稲妻が走るたびに一瞬だけ庭の木々が白く浮かび上がり狂ったように枝を揺らしているのが見えた。雨粒は風に煽られて横殴りになり、窓ガラスに叩きつけられるたびにびしびしと音を立てている。



 うとうとしていた。今日もなんだかんだ言って一日中遊んだ。流石に眠い。


 



 「土砂崩れだ!」

 男の怒鳴り声が夜の雨音を突き破るように響いた。

 僕は布団の上で飛び起きた。何が起きたのか分からず、心臓だけが先に跳ね上がり、胸の奥でどくどくと音を立てる。続けて玄関の方でばたばたと慌ただしい足音がし、戸の開く音、誰かの大声、近所の人の呼び合う声が入り混じって聞こえてきた。


 「えっ、なに!?」


 慌てて部屋を飛び出すと、祖母はすでに雨合羽を羽織り長靴を履いていた。いつもの穏やかな顔は消えていて口元は固く結ばれ、懐中電灯を握る手にも迷いがない。


 「山の方で崩れたらしい」


 「え?」


 「避難の手伝いに行くんだよ」


 玄関を開けた瞬間、湿った風とともに凄まじい雨音が家の中へなだれ込んできた。外では懐中電灯の光が何本も揺れ近所の大人たちが雨の中を走り回っている。誰かが大声で指示を飛ばし、軽トラックのエンジン音が濡れた夜道に響いていた。


 「僕も行く!」


 思わず叫ぶように言ったが、祖母は振り返りざまにきっぱりと首を振った。


 「だめ」


 「でも――」


 「子供は待ってなさい!」


 その声は珍しく強く、反論する余地もなかった。祖母は続けて「絶対外に出るんじゃないよ」と言い残しそのまま雨の闇の中へ消えていった。

 僕は玄関先に立ち尽くし、雨に滲んで遠ざかる懐中電灯の光を見送るしかなかった。家の中に戻っても落ち着けるはずがない。テレビをつけても詳しい情報は何も流れず、窓の外はただ雨と闇に閉ざされていて、時折響く雷と遠くの怒鳴り声だけが何かとんでもないことが起きているのだと告げていた。



 朝になったころには雨はようやく止み、空はまだ鉛色の雲に覆われていたものの、ところどころ薄い光が差し始めていた。庭の土はどろどろにぬかるみ排水溝からはまだ濁った水が勢いよく流れ続けている。祖母は朝方になってようやく帰ってきたが、雨合羽も長靴も泥だらけで顔色はひどく疲れていた。


 「大丈夫なの?」


 僕が恐る恐る聞くと、祖母は湯呑みに手を添えたまま、短く息を吐いた。


 「大きな崩れだったよ……でも全員無事だったんだ。奇跡的にね。」


 

 祖母が仮眠を取り始めると、僕はじっとしていられなくなった。まだ道路には泥が残り町全体が昨夜の混乱を引きずっているようだったが僕はこっそり家を抜け出し、森の方へ向かった。途中から道はひどくぬかるみ、靴が泥に沈むたびにぐちゅりと嫌な音を立てる。木の枝は折れ、葉はあちこちに散乱し、昨日まで見慣れていた森の入口がまるで暴れた獣に引き裂かれたみたいに荒れ果てていた。やがて人だかりが見えてきた。黄色い規制テープが張られ、消防団の人たちや町の大人たちが集まって、誰もが同じ方向を見つめている。僕もその隙間から覗き込んだ。そして息が止まった。

 

 山肌が、ごっそりと抉れていた。

 

 木も土も岩も全部が一塊になって崩れ落ちたように濁った土砂が谷を埋め尽くし、根こそぎ倒された木々が斜めに突き刺さっている。昨日まで森だった場所がそこだけ巨大な傷口みたいにむき出しになっていた。


 その中心に、鳥居があった。いや、鳥居の上だけが泥の中から突き出していた。赤茶けた木の上部が土砂の海の中からかろうじて顔を出している。最初は何なのか分からなかった。でも見覚えがある。あの形。あの色。神社だった。社殿も石段も、境内も、沢も、倒木も、楓の木も、全部。土砂の下に埋まっていた。鳥居の上だけが、墓標みたいにそこに残っていた。


 「……うそ」


 声が漏れた。

 頭の中が真っ白になる。昨日まであった場所が、跡形もなく消えている。

 あそこにいた。白いワンピースを着た楓が、昨日まで確かに石段の上に立っていた。


 喉の奥がぎゅっと締まり息がうまく吸えなくなる。呆然と泥の中から突き出した鳥居を見つめていた、そのときだった。


 「おまえさん、ここを知っているのか?」


 すぐ横から低くしわがれた声がした。


 僕はびくっとして振り向く。

 そこに立っていたのは小柄な老人だった。腰は少し曲がっているが背筋には妙な芯があり、白髪をきちんと撫でつけ、深い皺の刻まれた顔でじっと僕を見ている。年齢は八十をとうに超えていそうなのにその目だけは不思議なほど静かで鋭く、泥と混乱に包まれた現場の中でその老人だけがまるで別の時間を生きているような落ち着きをまとっていた。


 僕は答えられなかった。

けれど老人は僕の顔を見つめたまま、何かを確かめるようにゆっくりと目を細めた。


 「……知っているんだね」


 その声には驚きも責める響きもなく、ただ、ずっと昔から分かっていたことを静かに確認するような響きだけがあった。


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