表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/5

「もう、ここら辺には来ない方がいい」

翌朝、目が覚めた瞬間から、僕の頭の中にはあの神社のことしかなかった。


 祖母の家の天井板をぼんやり見つめながら、昨夜の出来事を何度も思い返す。森の奥にひっそりと建っていた古びた神社、夕焼けに染まる白いワンピース、そして楓という名前の少女。夢だったのではないかと思ってみても、虫かごの中には昨日捕まえたクワガタが確かにいて、靴の泥もまだ乾かないまま残っているのだから、あれが現実だったことを否定しようがなかった。

 朝食の席で祖母が焼いた鮭をつつきながらも、僕の意識は窓の外に向いていた。昨日は迷いに迷ってようやく辿り着いたはずなのに、不思議なことに、今なら行けるような気がしていた。あの神社までの道筋が、地図のように頭の中に浮かんでいるわけではない。けれど、「あそこはこの先だ」という感覚だけが、妙に確かなものとして胸の奥に残っていた。

 食べ終えるや否や、僕はそわそわしながら席を立った。


 「また虫取りかい」

 祖母が湯呑みにお茶を注ぎながら言った。


 「うん、昨日あんまり捕れなかったし」


 「迷わないように気をつけてよ」


 「分かってる」


 

 家の裏へ回ると、朝の光を浴びた森が、昨日とはまた違う顔をしていた。木々の葉にはまだ朝露が残り、蝉も本格的には鳴き始めていない。湿った土の匂いが立ちのぼり、遠くで小川の流れる音がかすかに聞こえる。

 昨日は探検のつもりで足を踏み入れたその道を、今日は迷いなく進んでいった。

 不思議だった。

 獣道のように曖昧だったはずの道がまるで最初からそこにあったみたいに見える。木の根を跨ぎ、低い枝をくぐり、昨日足を滑らせた倒木の横を通り過ぎるたびに、「ここだ」と分かる。

 迷わなかった。

 森の空気は相変わらず濃く、湿っていて、何層にも重なった葉が日差しを遮っていたがそれでも僕はまっすぐ進んでいけた。

 やがて視界が開ける。

 昨日と同じように森の中にぽっかりと切り取られた空間が現れ、その中央に古びた神社が静かに佇んでいた。鳥居は赤茶け、石段には苔が張りついている。風もないのに境内の空気だけがひんやりしていて、夏の森の熱気から少し切り離されたようだった。

 そして、その石段の上に楓はいた。白いワンピースの裾を揺らしながら昨日と同じように腰掛けている。膝の上に両手を置きこちらを見るでもなく境内の端に立つ一本の木を眺めていた。僕の足音に気づくとゆっくり顔を上げる。


 「来たんだ」

 その言い方は驚いているようでもあり、どこか少し困っているようでもあった。


 「来れた」

 僕は少し得意げに言った。


 「今日は迷わなかった」

 なんでかは分からないが。


 「……そう」


 楓はそれだけ言って小さく目を細めた。歓迎しているのか、そうでもないのか、相変わらず分かりにくい。けれど帰れとも言われなかったので僕はそのまま石段を上がった。


 「今日も遊ぼうよ」


 「また?」


 「だめ?」


 「…いいよ」

 しょうがないと苦笑しながら立ち上がった。サッとスカートが揺れる。それにしても綺麗な白色だ。汚れなんてない。


 昨日より気安くなった僕たちは境内を飛び出して森の中を歩き回った。

 沢沿いに並んだ石は昨日よりも滑りやすく見えた。夜のうちに少し雨が降ったのか表面が黒く濡れていて、水の流れもわずかに勢いを増している。浅いとはいえ足を滑らせれば膝くらいまでは浸かりそうだった。


 「向こう岸まで落ちないで行けた方が勝ち」

 僕が言うと、楓は沢を見下ろして、少しだけ首を傾げた。


 「勝ったら?」


 「……勝ったら、負けた方が言うこと聞く」


 「なにそれ」


 「いいじゃん」

 楓は一瞬考え、それから小さくうなずいた。


 「分かった」

 最初の一歩は僕が踏み出した。平たい石の上に慎重に足を置くと水がその縁をかすめて流れていく。見た目より滑る。バランスを取ろうとして両腕が勝手に広がった。後ろから楓の声がする。


 「へっぴり腰」


 「うるさいな」


 「もう負けそう」


 「まだ一歩目だから!」

 僕は二つ目、三つ目と石を渡った。沢の水は透き通っていて小さな魚が足元をすっと横切る。石と石の間は微妙に離れていて、飛ぶほどではないが気を抜くと届かない絶妙な距離だった。向こう岸まではあと三つ。よし、いける。そう思った瞬間だった。足を乗せた石がぬるりと滑った。


 「うわっ!」


 片足が水に落ちかけ、僕は慌てて手を振り回す。どうにか転ばずに済んだものの、靴の先が沢に浸かってしまい冷たい水が一気に染み込んできた。後ろで楓が吹き出した。


 「ださ……」


 「笑うなって!」


 振り返ると、楓は石の上でしゃがみ込むみたいにして笑いを堪えていた。肩が小刻みに揺れている。


 「じゃあ楓やってみろよ!」


 半分やけになって言うと楓は「うん」とだけ答えて、ひょい、と一歩目の石に乗った。その動きが妙に軽かった。まるで沢の流れなんて最初からないみたいに、すっと二つ目、三つ目と進んでいく。足元を確認する様子もない。ただ水の上を渡る鳥みたいにふわりふわりと石を踏んでいく。


 「え、ちょっと待って、ずるくない?」


 「ずるくないよ」


 「いや絶対慣れてるじゃん」


 「悠真が下手なだけ」


 「むかつくな!」


 楓は振り返りもせず最後の石に飛び移った。そのときだった。ぴしゃっ、と小さな水音がした。


 「あ」


 楓の足元の石がわずかに揺れた。バランスを崩しかけて、彼女の体がぐらりと傾く。


 「危なっ」


 僕は思わず手を伸ばしたが距離がある。次の瞬間、楓はどうにか踏みとどまったものの、片足だけ沢に落ちてしまった。白いワンピースの裾に水が跳ねる。一瞬、静寂。

 それから。


 「……っ」


 楓が僕を見た。

 僕も楓を見た。そして、先に笑ったのは僕だった。


 「楓もじゃん!」


 今度は僕が腹を抱えて笑う番だった。楓はじっとこちらを見て少しだけ頬を膨らませた。


 「……これは違う」


 「何が違うんだよ!」


 「最後だけだから」


 「負けは負けだろ!」


 「悠真の方が先に落ちかけた」


 「落ちてないし!」


 言い合いながら僕も向こう岸へ飛び移る。沢の水が靴の中でぐちゅっと鳴って気持ち悪い。でもそんなことより楓が珍しく少し悔しそうな顔をしているのが面白かった。


 「じゃあ負けた方の言うこと聞くんだよな」


 僕がにやにやしながら言うと、楓は警戒したように目を細めた。


 「……変なのはやだ」


 「変なのじゃないって」


 少し考えてから、僕は沢の向こうに倒れかかった一本の木を指差した。


 「あそこ登ってみよう」


 沢の上に斜めに倒れた大きな木だった。幹は太く苔が生えていて、途中から水面に枝が突き出している。ちょっとした橋みたいになっていた。


 「それだけ?」


 「なんだと思ったんだよ」


 「……別に」


 楓は少し安心したように息を吐いた。二人で倒木によじ登る。思ったより高くて、上に立つと沢がすぐ真下に見えた。


 「落ちたらびしょ濡れだな」


 「悠真なら落ちそう」


 「楓だってさっき落ちたじゃん」


 「最後だけ」


 「まだ言ってる」


 倒木の上に座り、僕たちは足をぶらぶらさせながら沢を見下ろした。水の流れる音が近い。木漏れ日が水面に反射してきらきら揺れている。そのとき、楓が不意に言った。


 「こういうの、久しぶり」


 「なにが?」


 「……遊ぶの」


 僕は少し意外に思って楓を見た。


 「友達いないの?」


 冗談のつもりで言ったのに楓はすぐには答えなかった。沢の流れを見つめたまま、小さく笑う。


 「……どうだろうね」

 

 「うわ、魚!」


 「え、どこ!?」


 二人で身を乗り出しすぎて倒木がぐらっと揺れる。


 「危なっ!」


 「悠真押した!」


 「押してないって!」


 結局二人とも慌ててしがみつき、魚は逃げてしまった。そしてまた楓が声を殺して笑う。沢の音に混じるその笑い声が夏の森の中に小さく弾けて、僕はなぜかそれだけでこの日が特別なものになる気がしていた。


 

 昼前になると日差しが少し強くなり森の空気もじっとりと熱を帯び始めた。僕たちは神社の裏手にある大きな木の根元に座って休んだ。そこには一本の立派な楓の木があった。神社の裏手にひっそりと立つその木は周囲の雑木よりもひと回り大きく、幹は太く、枝は四方に広がっている。夏の葉は青々としていて陽の光を受けるたびに薄い緑が透けた。木漏れ日が葉の隙間からこぼれ、地面に細かな影を揺らしている。


 「この木、好き」


 楓がぽつりと言った。僕は見上げる。


 「楓の木?」


 「うん」


 「名前と同じだから?」


 楓は少しだけ笑った。


 「それもあるけど」


 彼女は幹にそっと手を当てた。白い指先が樹皮の上をなぞる。


 「この木、ずっとここにいるから」


 「木なんだから当たり前じゃん」


 「そういうことじゃないよ」


 その言い方が妙に真剣で僕は黙った。楓はしばらく木を見上げていた。風が吹き、枝葉がさわさわと鳴る。その音だけが、森の静けさの中でやけに大きく聞こえた。


 「春も夏も秋も冬も、ここにいて、全部見てるんだよ」


 「……ふーん」


 僕にはいまいち分からなかった。でも楓にとって、この木が特別なのは伝わってきた。


 「秋になったら綺麗そうだな」


 そう言うと、楓は少し目を伏せた。


 「……そうだね」



 午後も僕たちは遊び続けた。

 神社の境内に積もった落ち葉を掃いて道を作ったり、石灯籠の陰に隠れてかくれんぼをしたり、社殿の裏で見つけた小さな穴を「秘密の入り口だ」と言って盛り上がったりした。楓は相変わらず感情を大きく表には出さなかったが、ときどきふっと笑う瞬間があって、そのたびに僕は少し嬉しくなった。ここだけ時間が違うみたいだった。家で過ごす夏休みより、学校の休み時間より、何倍も濃くて面白い。知らない場所で知らない子と遊んでいるというだけで全部が特別に思えた。

 やがて木々の間から差し込む光が少し赤みを帯び始めた。夕方だった。


 「もう帰る」


 僕が立ち上がると楓も石段の方へ歩き出した。昨日と同じように神社の高い場所から森の向こうを見ると祖母の家の屋根が夕焼けの中に見えていた。

 そのときだった。


 「悠真」


 楓が珍しく真剣な声だった。振り返る。彼女は石段の上に立ったままじっとこちらを見ていた。夕焼けが背後から差し込み、白いワンピースの輪郭が赤く染まっている。


 「もう、ここら辺には来ない方がいい」


 意味が分からなかった。


 「え?」


 「来ない方がいい」


 繰り返す声は昨日までとは違っていた。静かではあるのに、妙に硬い。いつも曖昧に笑っていた楓が初めてはっきりとした口調で言っている。


 「なんで?」


 「巻き込まれるから」


 「何に?」


 楓は答えなかった。風が吹く。木々がざわめき楓の黒髪が頬にかかる。その表情は、怒っているわけでもない。けれど今まで見たことがないほど真剣だった。


 「よく分かんないことになる」


 「なにそれ」


 冗談かと思って笑おうとしたけれど、楓の顔を見て笑えなくなった。彼女は本気だった。子供同士の遊びの中で出るような言葉ではない、もっと切実な何かを抱えた顔だった。僕は曖昧にうなずくしかなかった。石段を下り鳥居をくぐる。振り返ると楓はまだそこに立っていた。楓の木の枝が彼女の頭上で揺れている。その姿は夕焼けに溶け込みそうなほど静かで、それなのに妙にくっきりと目に焼きついた。

 

 その夜の雨は夕方まではただの通り雨の延長のように思えた。昼頃から空の色はどこか鈍く、山の向こうには重たい灰色の雲が溜まっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ