木言葉
声をかけてきたのは腰の曲がった老人だった。背は低く、細い体を古びた作務衣のようなものに包み白くなった髪は雨上がりの湿気を吸ってところどころ跳ねていたが、その立ち姿には奇妙なほど揺るぎのない静けさがあり、まるでこの崩れた山の景色の中でひとりだけ時間の流れから取り残されているようにも見えた。顔には深い皺が幾重にも刻まれていたものの、目だけは不思議なほど澄んでいて、その視線に射抜かれた瞬間、僕は咄嗟に嘘をつけないような気がした。
僕は喉の奥が乾くのを感じながら半ば埋まった鳥居の先を見つめたまま小さくうなずいた。
「昨日まで、ここに……神社があったんです」
「そうか」
老人は驚くでもなく、静かに返し、泥に沈んだ鳥居をしばらく見つめた。
「わしはな、ここの神主だったんだよ」
老人は言った。
「もう何年も前に辞めてしまったがね。年には勝てん。しかしこんな山の奥まで通える人間もおらん。跡を継ぐ者も結局見つからず、そのまま放ってしまった」
僕は迷った末にぽつりぽつりと話し始めた。森で迷ったこと、古い神社を見つけたこと、そこで白い服を着た同い年くらいの少女に出会ったこと、二日続けて一緒に遊んだこと、楓の木が好きだと言っていたこと、そして最後に「もうここら辺には来ない方がいい」と、子供らしくないほど真剣な顔で言われたことをなるべく忘れないように順番に話した。話しているうちに自分でも信じられないことを口にしている気がして途中で何度も言葉が詰まりそうになったが、老人は一度も遮らず、ただ静かに聞いていた。
すべてを話し終えたあと、老人はしばらく何も言わなかった。湿った風が吹き、崩れた土の匂いが鼻をかすめ、遠くで誰かの呼ぶ声がかすかに響いていた。その沈黙の長さに耐えきれなくなったころ老人はふっと目を細め、どこか懐かしいものを見るような顔で笑った。
「そうか……あの子は、まだそこにいたんだな」
……え?
「知ってるんですか」
思わず聞くと、老人は小さくうなずいた。
「知っているとも。わしも、子供の頃に会ったことがある」
遠い昔の景色を思い出すように、泥に埋まった鳥居の先を見つめながら静かに続けた。
「わしがまだ、お前さんくらいの歳だったころだ。山で迷ってな、この神社にたどり着いた。そこで白い服の女の子に会った。名前は言わなかったが、木の下に座るのが好きでな、よく笑う子だった。わしも一緒に遊んだよ。川で魚を追いかけたり、木の実を拾ったりしてな。」
ただ老人の横顔を見ていた。
泥に埋もれた山肌を見上げた。その視線の先には木々の根がむき出しになった斜面と、その下に半ば呑み込まれた鳥居の朱色が雨上がりの鈍い光を受けて沈んでいた。
「そうか……」
老人はまるで独り言のように呟いた。
「自分を犠牲にして、我々を守ってくれたのか」
あの夕暮れの神社で見た楓の真剣な顔だけがやけに鮮明に思い出された。あの時の言葉は脅しでも冗談でもなく、本当に何かを背負っていたのだと今になってわかった。
その後僕は一人で森の中を歩いた。雨に濡れた葉がしっとりと光り、枝先からはまだ雫がぽたりぽたりと落ちていた。あの神社へ続いていた道は土に埋もれ、もうどこが道だったのかも分からなくなっていたが森そのものは何事もなかったように静かだった。あ、あれは。ふと見上げると、そこには楓の木が何本も立っていた。夏の青い葉をいっぱいに広げ、風が吹くたびに枝先がかすかに揺れ、そのたびに葉と葉が触れ合って、さわさわと小さな音を立てていた。
あとで僕も知ったのだが、花言葉ならぬ「木言葉」というものがあるらしい。木にもそれぞれ意味があって、昔の人はそこに思いを重ねたのだという。
楓の木言葉は、、「大切な思い出」。
風が吹き、青い葉が揺れた。その音が、一瞬だけ、あの日の神社で聞いた笑い声に似ている気がして僕は思わず立ち止まった。けれど振り返ってもそこには誰もいなかった。ただ夏の森だけが、何も知らないような顔で、静かに揺れていた。




