25話 旅立ち 25-3
頭上を覆う巨木が陽の光を遮り、車内には薄暗い緑の影が落ちていた。
茜と凛の乗る車は、道とは名ばかりの、獣道のような廃道に差し掛かる。
「茜、掴まって……!」
凛のその言葉に、茜は咄嗟にアシストグリップを掴んだ。
フロントガラスに目を向けると、目の前に土から迫り出す岩が視界に入った。
避けることはできない。
「行くよ!」
凛が覚悟を決め、アクセルペダルを踏み込んだ。
前輪が岩の傾斜に乗り上げた瞬間、車体が大きく右上に跳ね上がった。
凄まじい衝撃。
「……!」
茜はアシストグリップを持ち手に力を込め、姿勢制御に注力する。
視界がぐらりと傾き、悲鳴を上げてハンドルを手放してしまいそうな局面。
しかし、凛の瞳に宿る光は一瞬たりとも曇らなかった。
「くっ……!」
激しい着地音が鳴り響き、頑丈なサスペンションが悲鳴を上げて縮み込む。
しかし、ジープは進路を乱すことなく、真っ直ぐに前を向いていた。
「ふぅ……。」
凛は肩の力を抜き、アクセルペダルを僅かに緩めた。
車は相変わらず、木々の間を抜けていく。
「危なかった……。」
凛は額の汗をひとぐい拭うと、再び凛とした表情で、木々の隙間を鋭く見つめた。
「道が悪いね。」
茜はアシストグリップを握ったまま、身を乗り出し地面を注視する。
先ほどほどではないが、地面から迫り出した石がそこかしこにあるのが見える。
凛もそれが分かっていたので、運転に集中せざるを得なかった。
もう二人の中に豪の叱責はなかった。
険しい獣道を抜けると、それまで行く手を塞いでいた鬱蒼とした木々が、嘘のように左右へと引いていった。
「あ……光……!」
凛の弾んだ声と同時に、フロントガラスいっぱいに強烈な太陽の光が溢れ出す。
思わず目を細めるほどのまばゆさの中、車は緑のトンネルを完全に脱した。
目の前に現れたのは、静まり返った湖。
鏡のように滑らかな湖面が、青空と周囲の山々を美しく映し出している。
「二人はどこにいるんだろう?」
凛は速度を落とし、車輪が砂利を噛む音をさせながら、湖のすぐ手前でジープを静かに停車させた。
茜と凛は車から降り、二人を探すように周囲を観察する。
「あそこ!」
茜の指さす方向へ凛も目を向けると、そこには湖畔に佇むテントがあった。
「テントが張ってあるね。
あそこにいるのかな?行ってみよう。」
茜と凛は二人との再会を期待して、走り出した。
◇
森の奥の湖、そのさらに最奥。
地鳴りのような水音が、静かな湖畔の空気を激しく震わせていた。
湖へと注ぎ込む切り立った崖から、真っ白な水飛沫を上げて激しく流れ落ちる滝。
その激流の真下に、凪とレイの姿はあった。
「……。」
上半身をむき出しにし、ただひたすらに打ち付ける冷水に耐えている。
二人の表情は苦悶に満ち、固く結ばれた唇からは白い息が漏れていた。
(くっ……!)
心の中にある割り切れない何か、言葉にできない深い悩みを強引に圧し流すような、痛々しいほどの滝行だった。
(考えてられない……!)
二人はその言葉の通り、悩みが思い浮かぶ隙もなく、打ち付けられる水圧に流されていった。
激流の重圧が、容赦なく二人の肉体を叩き続ける。
骨まで凍てつくような冷水が感覚を麻痺させ、轟音が耳から一切の雑音を締め出していく。
(……!)
悩み、焦燥、割り切れない過去——。
滝に打たれ始めたとき、脳裏をぐるぐると渦巻いていた混沌とした思考は、強烈な水圧の前に、もはや形を保っていられなかった。
一つ、また一つと、雑念が激流のなかに力任せに圧し流されていく。
(俺は……。)
凪はその水圧に意識が流されていく。
◇
思考を圧し流す激流の彼方で、世界からすべての音が完全に消失した。
滝の轟音も、肌を刺す冷水の感覚も、次の瞬間、跡形もなく消え去っていった。
凪が深く沈み込んだその場所は、天も地もない、どこまでも純白に染まった真っ白い空間だった。
(神機の……中か……?)
懐かしさすら覚えるその絶対的な静寂。
しかし、安息は長くは続かなかった。
前方の空間が、まるで襖が開くように一気に開けた。
刹那、その裂け目から猛烈な暴風が吹き込み、凪の肉体を吹き飛ばさんと容赦なく押し流した。
(くっ……!)
凪は暴風に抗って足を踏みとどまらせ、真っ白な空間に空いたその"穴"の先を覗き込む。
彼の瞳が、驚愕に大きく見開かれた。
穴の向こうに広がっていたのは、かつて彼がすべてを懸けて戦った場所——広大な森林。
その全域が、天を衝くほどの赤黒い炎に包まれ、火の粉を散らしながら激しく燃え盛っていた。
(この光景は……!)
脳裏を過る、一人の少女の面影。
「澪ちゃん…。」
その名を呟いた瞬間、突如として足元の感覚が消失する。
奈落の底へ引きずり込まれるような強烈な重力。凪の身体は穴へと吸い込まれ、白い世界から容赦なく外へと排出された。
天と地が、凄まじい速度で交互に視界を回り出す。
引き千切られそうな風圧のなか、彼はただ、その名をもう一度叫んだ。
「澪ちゃん……!」
五臓六腑を震わせるほどの凄まじい衝撃。
凪の身体は、どこか冷たく無機質な"鉄の塊"の中へと叩きつけられていた。
激しい目眩のなか、あの時と同じように、彼は咄嗟に天を見上げる。
圧倒的な質量と、神聖なまでの威容。
天から差し込むわずかな光を浴びて佇むそれは、凪を拒絶するでもなく、ただ静かに、深い慈悲を湛えた瞳で見つめ返している。
「真・神機……。」
凪は目を見開き、その光景に立ちすくむしかなかった。
凪は力強く爪が食い込むほど拳を握りしめた。
じわりと滲む血の痛みすら、今の彼には届かない。
拳に込められたのは、あの日に置いていかれた底知れない悲しみか、あるいは何もできなかった自分への募る不甲斐なさか。
あの日、あの燃え盛る森で感じた絶望のすべてが、今、容赦なく凪の心へと襲いかかってきた。
「何で!」
凪は真・神機に向かって無意識に叫んでいた。
声を枯らし、胸を引き裂くような叫び。
だが、その激情を受けてもなお、真・神機は何も語らない。
ただ静かに、すべてを包み込むような圧倒的な慈悲の眼差しで、凪を見つめ続けていた。
「俺たちは二人で一つだったじゃないか!」
澪は、凪にすべてを託した。
それは凪も痛いほどに理解していた。
頭では分かっている。分かっているからこそ、逃げ場のない言い知れぬ絶望が凪に襲いかかってくる。
「何で……。」
「何で連れて行ってくれなかったんだ……。」
張り詰めていた糸が切れたように、凪はその場に膝を落とした。
(ああ……俺は……。)
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