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同じ日の夜。
ヴォルコフ公爵邸。
アンドレイは執務室で頭を抱えていた。
三日間、リゼットの不在が屋敷を確実に蝕んでいた。
厨房は混乱し、毎食の質が目に見えて落ちた。フローラが「私が献立を考えますわ」と張り切ったが、慣れていないこともあり手際が悪くやたら時間がかかった上、初日から食材の予算を三倍使い、料理長が悲鳴を上げた。
帳簿は誰にも読み解けなかった。リゼットが構築した管理体系は精緻で合理的だったが、それは裏を返せば彼女以外に理解できる者がいないということだった。
領民からの陳情は二十件を超え、そのどれもが「以前は翌日には回答があったのに」と不満を漏らしている。
そして薬草園。
「旦那様、薬草園の特殊品種が枯れ始めております。奥方様――元奥方様だけがご存じだった調合水の配分が分からず……」
「黙れ」
アンドレイは机を叩いた。
苛立ちの理由が、自分でもわからなかった。
リゼットがいなくなって困っているから苛立っているのか。それとも、リゼットがいなくなっても平気だと思っていた自分が間違っていたと認めたくないから苛立っているのか。
「旦那様」
執事のイヴァンが、もう一つ報告を持ってきた。
「先ほど、王都の社交界筋から情報が入りました。ヴェルグリア帝国の皇太子殿下が、この国を訪問中だそうです」
「ヴェルグリアの皇太子? それが何だ」
「殿下が……セレブリャコフ辺境伯領を訪ねたという話です」
「セレブリャコフ? ……リゼットの実家か」
「はい。どうやら、聖女候補を見つけたとかで――」
アンドレイの手が止まった。
「聖女候補? セレブリャコフ家の誰だ」
「それが……元奥方の、リゼット様だと」
長い沈黙があった。
「……リゼットが、聖女?」
「にわかには信じがたいのですが、皇太子殿下がじきじきに訪ねたのは確かなようで」
アンドレイは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
あの地味な女が。帳簿と薬草しか能のない、退屈な女が。
百年に一人の聖女?
馬鹿な。
馬鹿な、と思いながら、署名していない離縁届がまだ引き出しに入っていることを、アンドレイは急に意識した。
署名しなければ、まだ婚姻関係は――
「旦那様?」
「……何でもない」
引き出しに手を伸ばしかけて、止めた。
まだだ。まだ、焦る段階ではない。
あの女が聖女であるはずがない。何かの間違いだ。
そう思い込もうとするアンドレイの耳に、廊下からフローラの声が響いた。
「アンドレイ様ー! 明日の朝食なんですけど、お砂糖がもう足りなくて――」
こめかみを押さえる。
頭痛がした。
第3話 了




