3-2
三日後の朝。
セレブリャコフ辺境伯領に、予想もしない来客があった。
「へ、陛下の勅使ですと……!?」
父が血相を変えて玄関に走る。
王宮からの使者。それだけでも大事だが、勅使の横に並んでいたのは、見たこともない豪華な馬車と、蒼い軍服に身を包んだ一団だった。
蒼い隼の紋章。
リゼットは二階の窓からそれを見て、息を飲んだ。
「ヴェルグリア帝国皇太子、セドリック・ヴェルグリア殿下の御来訪でございます」
玄関ホールに響く声。
父が跪く。弟が跪く。使用人が全員、床に膝をつく。
その中を、金の髪の青年がゆっくりと歩いてきた。
蒼い瞳。穏やかな微笑み。
あの日、道端でリゼットの手を包んでくれた手が、今は白い手袋に覆われている。
「セレブリャコフ辺境伯。突然の訪問をお許しいただきたい」
「と、とんでもございません……! ヴェルグリアの皇太子殿下をお迎えできるとは、身に余る光栄……」
父の声が震えている。リゼットは見たことがなかった、父があんなに動揺する姿を。
「実は、お訪ねしたのは辺境伯ではなく――」
セドリックの蒼い瞳が、まっすぐ二階を見上げた。
窓際のリゼットを、迷いなく見つけた。
「――リゼット・セレブリャコフ嬢に、お会いしたく参りました」
沈黙が落ちた。
父が振り返る。弟が目を見開く。使用人たちがざわめく。
全員の視線が、リゼットに集まった。
「リゼットに……? 我が娘に、ですか?」
「ええ」
セドリックは微笑んだまま頷いた。
「先日、街道でお会いしました。その際に確信したのです。――彼女には聖女の素質がある、と」
ざわめきが、爆発した。
「聖女……!?」
「あの、リゼットが……?」
「まさか……」
リゼットは階段を降りることも、声を出すこともできなかった。足が動かない。
聖女。百年に一人と言われる、癒しの力を持つ存在。各国が血眼になって探しているという、伝説の存在。
それが、自分?
地味で、目立たなくて、夫にすら顧みられなかった自分が?
「リゼットさん」
セドリックが階段の下から見上げていた。
「降りてきてくださいますか。直接、お話ししたいことがあります」
足が震えた。
でも、あの蒼い瞳は、道端で泣いている自分に膝をついてくれた時と、何一つ変わらなかった。
一段、一段、階段を降りる。
使用人たちの視線が突き刺さる。父の目が信じられないという色に染まっている。弟が口を半開きにしている。
全員の前を通り過ぎて、セドリックの前に立った。
「……お久しぶりです、セドリック様」
「ああ、外套を返しそびれていただろうと思いまして」
冗談のように言って、セドリックは微かに笑った。
場違いなほど穏やかなその声に、リゼットの強張りが少しだけほどけた。
「……それだけのために、皇太子殿下が直々に?」
「それだけではありませんが、外套は大事です。あれは気に入っていたので」
また笑う。
周囲が凍りついているというのに、この人はリゼットと話す時だけ空気が変わる。
「本題を申し上げます」
セドリックの表情が、穏やかさの中にわずかな真剣さを帯びた。
「ヴェルグリア帝国は、聖女を必要としています。我が国には百年周期で目覚める災厄があり、聖女の浄化の力なくしては対処できない。各国を巡り候補者を探してきましたが、素質を持つ方は見つからなかった」
一拍、置いて。
「先日、あなたに触れた際、あなたの手からかすかな聖光を感じました。あれは聖女の素質がある者にしか宿らないものです」
リゼットは自分の手のひらを見た。
昔から温かくなることがあった。傷ついた動物を癒せた。領民の子供の熱を下げた。
偶然だと、ずっと思っていた。
「リゼットさん。我が国に来ていただけませんか。聖女候補として正式にお迎えしたい」
セドリックが右手を差し出した。
あの日と同じように。道端で、座り込んでいた自分に手を差し伸べてくれたように。
「聖女候補として……私を……?」
「ええ。あなたを」
「ですが、私はただの辺境伯の娘で、何の取り柄もない……」
「取り柄がない?」
セドリックの眉がわずかに動いた。
それから、信じられないものを見るような顔をした。怒りではない。悲しみに近い何か。
「リゼットさん。あなたは、自分をそのように思っているのですか」
「……事実ですから」
「事実ではありません」
静かだが、強い否定だった。
「百年に一人の聖女の素質を持つ方が、取り柄がないなどということはあり得ない。……それに」
セドリックの蒼い瞳が、真っ直ぐにリゼットを射抜いた。
「あなたの価値は、聖女であるかどうか以前の問題です。道端で一人泣きながら、それでも自分の足で立ち上がろうとしていた。あの強さだけで、あなたには十分な価値がある」
声が出なかった。
取り柄がない。価値がない。いてもいなくても同じ。
三年間、刷り込まれてきた言葉が、目の前のこの人の一言で揺らぐ。
リゼットの右手がかすかに光った。自分では気づかないほど淡い光。
だがセドリックは見逃さなかった。
「……ほら」
優しく微笑んだ。
「応えている。あなたの力が」
◇
その日のうちに、セレブリャコフ家は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
父は態度を手のひら返しで改め、リゼットを客間に移した。使用人棟の小部屋から、屋敷で最も良い客間へ。
「リゼット、あの部屋は狭かったろう。こちらを使いなさい」
「……昨日まで使用人棟で十分だとおっしゃっていましたが」
「いやいや、お前は大事な娘だからな。当然だろう」
弟のニコラも擦り寄ってきた。
「姉さん、すごいね。聖女候補だなんて。……あの、ヴェルグリアに行く時、僕のことも紹介してくれない? 皇太子殿下と繋がりができれば――」
「ニコラ」
リゼットは静かに遮った。
「三日前に、なぜ我慢できなかったのかと言ったのは、あなたよ」
弟が口をつぐんだ。
リゼットはそのまま客間に入り、扉を閉めた。
怒ってはいない。ただ、疲れただけ。
人の態度は、こんなにも簡単に変わるものなのだと、改めて思い知っただけ。
窓の外を見ると、中庭でセドリックが供の者と話しているのが見えた。
ふと、彼がこちらを見上げた。
目が合う。
セドリックは小さく手を振った。大国の皇太子が、二階の窓に向かって、少年のように手を振っている。
思わず、笑ってしまった。
いつぶりだろう、笑ったのは。




