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その夜。
宿屋の小さな部屋で、リゼットはセドリックから借りた外套を畳もうとした。
返しそびれてしまった。明日、宿場町の役人に預ければ届くだろうか。
外套の裏地を確認する。銀糸の刺繍の中に、小さく文字が縫い込まれていた。
『セドリック・ヴェルグリア』
ヴェルグリア。
――ヴェルグリア帝国の、皇族の姓。
リゼットは目を見開いた。
街道で聞いた商人たちの会話が蘇る。
「ヴェルグリアの皇太子殿下が聖女を探している――」
あの人が。
あの、膝をついて手当てをしてくれた人が。
この国にいないはずの、隣国の皇太子。
外套を抱きしめたまま、リゼットの心臓が鳴りやまなかった。
◇
同じ夜。
ヴォルコフ公爵邸。
アンドレイはようやく書斎の机に向かっていた。
フローラとの夕食を終え、上機嫌で戻った彼の目に、一枚の紙が映った。
離縁届。
妻の署名入り。
日付は昨日。
「……は?」
初めて、リゼットが屋敷からいなくなったことを理解した。
だが、アンドレイの口から出たのは動揺でも後悔でもなかった。
「勝手に出ていったのか。まあいい。手間が省けた」
署名欄に、自分の名前を書こうとペンを取る。
――取ったまま、止まった。
視界の端にある帳簿の山。整理されていない陳情書。空になった薬草棚。
今朝から何もかもが滞っている屋敷の、その原因がほんの一瞬だけ頭をよぎり――
「……いや」
振り払う。
「お前がいなくなっても、何も変わらない」
誰もいない書斎で、アンドレイはそう呟いた。
まるで、自分に言い聞かせるように。
第2話 了




