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三年間名ばかりの妻でしたが、離縁届を置いて出ていきます。――え、隣国の皇太子が私を望んでいる? もう遅いですよ、旦那様  作者: 物語創造者≪イマージェン・クリエイター≫
第2話 「あの方は、なぜ泣いていたのだろう」

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2-1

リゼットがいなくなった翌朝。


ヴォルコフ公爵邸は、静かに壊れ始めていた。

「旦那様、朝食の件ですが」


執事のイヴァンが書斎に入ると、アンドレイは不機嫌そうに顔を上げた。


「何だ」


「その……本日の朝食の献立が不明でして。奥方様がいつも前日に指示を出されていたのですが、昨日からお姿が見えず……」


「リゼットがいないと朝食も出せないのか。使用人の怠慢だろう」


「申し訳ございません。それと、領民からの陳情書が十二件溜まっておりまして、これも奥方様が分類と優先順位づけを――」


「後にしろ」


アンドレイは書類を押しやり、立ち上がった。


些事だ。リゼットが一日二日いないくらいで、何が変わるものか。


フローラと朝の散歩に行く方が先だ。


「ああ、イヴァン」


「はい」


「リゼットから何か届いていないか。手紙とか、伝言とか」


「いえ、特には。……あ、そういえば、旦那様の書斎の机に何か紙が一枚置いてあったようですが」


「後で見る」


アンドレイは背を向けた。


まだ、見つけていない。



同じ頃。


乗合馬車に揺られて二日目の朝を迎えたリゼットは、予定外の事態に直面していた。


「お客さん、すまねぇ。車軸がいかれちまった。次の宿場町まで歩いてもらうしかねぇ」


街道の途中で、馬車が壊れたのだ。


秋の朝は冷える。薄い旅装のリゼットは小さな鞄を抱え、霧の立ちこめる街道を一人で歩き始めた。


次の宿場町まで、徒歩で半日。


「……大丈夫。これくらい、どうということはない」


三年間、あの屋敷で耐えたのだ。半日歩くくらい、何でもない。


そう自分に言い聞かせた時だった。


足元の石に躓いた。


「っ――!」


膝を強く打ち、手のひらが地面に擦れた。じわりと血が滲む。


……痛い。


膝の痛みより、なぜか、胸の奥がずっと痛い。


屋敷を出る時は平気だった。馬車に乗った時も、冷静だった。


なのに今、道端で膝を擦りむいただけで、涙が溢れてくる。


「…………っ」


声を殺して泣いた。


三年分の涙が、全部ここに来て溢れ出したみたいに。


誰も見ていない街道で、一人きりで泣いた。


惨めだと思った。公爵夫人だった女が、道端で膝を抱えて泣いている。


いや――公爵夫人ですらなかった。ただの、いてもいなくても変わらない女。


「お怪我をされていますね」


声がした。


顔を上げると、逆光の中に人影が立っていた。


金の髪が、朝の光に透けている。


深い、深い蒼の瞳。


昨日、白銀の馬車の窓越しに一瞬だけ見た色と、同じだった。


「失礼。驚かせてしまいましたか」


その人は膝をつき、リゼットと同じ目線になった。


上等な外套。仕立ての良い手袋。明らかに身分の高い人物だと分かる。なのに、道端で座り込んでいる見知らぬ女に、迷いなく膝をつく。


「手を、見せていただけますか」


「あ……いえ、大したことは……」


「血が出ています。大したことはあります」


穏やかだけれど、有無を言わさない声。


リゼットが戸惑っている間に、その人は自分の手袋を外し、懐から清潔な布を取り出して、リゼットの手のひらを包んだ。


丁寧に。壊れ物を扱うように。


「……あ、の。お召し物が汚れます」


「召し物は替えがあります。あなたの手は一つしかない」


当然のことのように言う。


三年間、誰にも言ってもらえなかった類の言葉を、見ず知らずの人がためらいなく口にする。


――その事実が、泣き止んだはずの涙をまた呼んだ。


「……すみ、ません。見苦しいところを……」


「いいえ」


蒼い瞳が、リゼットをまっすぐ見つめていた。


「泣くことは見苦しくなどありません。……それより、ずいぶん薄着ですね。この季節の朝には堪える」


そう言って、その人は自分の外套を外した。


深い蒼色の、上質な外套。裏地に銀糸で細かな刺繍が施されている。リゼットが一生かかっても手にできないような品。


それを、リゼットの肩にかけた。


「え……そんな、こんな高価なもの……」


「寒さで体を壊す方が高くつきます」


微かに笑った。


その笑顔を見て、リゼットは不思議に思った。


この人は、なぜこんなにも自然に優しいのだろう。


アンドレイは三年間、一度も笑いかけてくれなかった。リゼットのために何かをしてくれたことも、一度もなかった。


それが「普通」だと思っていた。


自分は、そういう扱いを受ける程度の人間なのだと。


なのにこの人は、道端の見知らぬ女に、何の見返りも求めず手当てをし、外套までかけてくれる。


「あの。お名前だけでも……お礼をしたいので」


「セドリック、と。ただの旅人ですよ」


ただの旅人にしては、供の者が遠くに控えているのが見えた。白銀の馬車も。


――蒼い隼の紋章。


「あなたは?」


「リゼット……セレブリャコフと申します」


旧姓を名乗った。もうヴォルコフではない。


「リゼット」


名前を呼ばれただけなのに、胸が震えた。


三年間、名前で呼ばれたことがどれだけ少なかったか。アンドレイはいつも「お前」だった。使用人は「奥様」とは呼んだが、それは役職名のようなものだ。


この人は、私の名前を呼んだ。


「リゼットさん、次の宿場町までお送りしましょう。こんな道を一人で歩かせるわけにはいかない」


「いえ、そんな……見ず知らずの方にご迷惑を」


「迷惑?」


セドリックは少し首を傾げ、それから静かに言った。


「困っている人に手を差し伸べることを迷惑とは言いません。少なくとも、私の国ではそうです」


――私の国。


やはり、この人は。


「どうか遠慮なく。馬車は広い。……それに」


セドリックはリゼットの手を見た。先ほど手当てをした手。


「その手は、大切にされるべきだ」


意味深な言葉の真意を問う前に、セドリックは立ち上がり、リゼットに手を差し出した。


迷った。


でも――膝は痛むし、秋の朝は寒い。そしてこの人の手は、温かそうだった。


リゼットはその手を取った。

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