2-1
リゼットがいなくなった翌朝。
ヴォルコフ公爵邸は、静かに壊れ始めていた。
「旦那様、朝食の件ですが」
執事のイヴァンが書斎に入ると、アンドレイは不機嫌そうに顔を上げた。
「何だ」
「その……本日の朝食の献立が不明でして。奥方様がいつも前日に指示を出されていたのですが、昨日からお姿が見えず……」
「リゼットがいないと朝食も出せないのか。使用人の怠慢だろう」
「申し訳ございません。それと、領民からの陳情書が十二件溜まっておりまして、これも奥方様が分類と優先順位づけを――」
「後にしろ」
アンドレイは書類を押しやり、立ち上がった。
些事だ。リゼットが一日二日いないくらいで、何が変わるものか。
フローラと朝の散歩に行く方が先だ。
「ああ、イヴァン」
「はい」
「リゼットから何か届いていないか。手紙とか、伝言とか」
「いえ、特には。……あ、そういえば、旦那様の書斎の机に何か紙が一枚置いてあったようですが」
「後で見る」
アンドレイは背を向けた。
まだ、見つけていない。
◇
同じ頃。
乗合馬車に揺られて二日目の朝を迎えたリゼットは、予定外の事態に直面していた。
「お客さん、すまねぇ。車軸がいかれちまった。次の宿場町まで歩いてもらうしかねぇ」
街道の途中で、馬車が壊れたのだ。
秋の朝は冷える。薄い旅装のリゼットは小さな鞄を抱え、霧の立ちこめる街道を一人で歩き始めた。
次の宿場町まで、徒歩で半日。
「……大丈夫。これくらい、どうということはない」
三年間、あの屋敷で耐えたのだ。半日歩くくらい、何でもない。
そう自分に言い聞かせた時だった。
足元の石に躓いた。
「っ――!」
膝を強く打ち、手のひらが地面に擦れた。じわりと血が滲む。
……痛い。
膝の痛みより、なぜか、胸の奥がずっと痛い。
屋敷を出る時は平気だった。馬車に乗った時も、冷静だった。
なのに今、道端で膝を擦りむいただけで、涙が溢れてくる。
「…………っ」
声を殺して泣いた。
三年分の涙が、全部ここに来て溢れ出したみたいに。
誰も見ていない街道で、一人きりで泣いた。
惨めだと思った。公爵夫人だった女が、道端で膝を抱えて泣いている。
いや――公爵夫人ですらなかった。ただの、いてもいなくても変わらない女。
「お怪我をされていますね」
声がした。
顔を上げると、逆光の中に人影が立っていた。
金の髪が、朝の光に透けている。
深い、深い蒼の瞳。
昨日、白銀の馬車の窓越しに一瞬だけ見た色と、同じだった。
「失礼。驚かせてしまいましたか」
その人は膝をつき、リゼットと同じ目線になった。
上等な外套。仕立ての良い手袋。明らかに身分の高い人物だと分かる。なのに、道端で座り込んでいる見知らぬ女に、迷いなく膝をつく。
「手を、見せていただけますか」
「あ……いえ、大したことは……」
「血が出ています。大したことはあります」
穏やかだけれど、有無を言わさない声。
リゼットが戸惑っている間に、その人は自分の手袋を外し、懐から清潔な布を取り出して、リゼットの手のひらを包んだ。
丁寧に。壊れ物を扱うように。
「……あ、の。お召し物が汚れます」
「召し物は替えがあります。あなたの手は一つしかない」
当然のことのように言う。
三年間、誰にも言ってもらえなかった類の言葉を、見ず知らずの人がためらいなく口にする。
――その事実が、泣き止んだはずの涙をまた呼んだ。
「……すみ、ません。見苦しいところを……」
「いいえ」
蒼い瞳が、リゼットをまっすぐ見つめていた。
「泣くことは見苦しくなどありません。……それより、ずいぶん薄着ですね。この季節の朝には堪える」
そう言って、その人は自分の外套を外した。
深い蒼色の、上質な外套。裏地に銀糸で細かな刺繍が施されている。リゼットが一生かかっても手にできないような品。
それを、リゼットの肩にかけた。
「え……そんな、こんな高価なもの……」
「寒さで体を壊す方が高くつきます」
微かに笑った。
その笑顔を見て、リゼットは不思議に思った。
この人は、なぜこんなにも自然に優しいのだろう。
アンドレイは三年間、一度も笑いかけてくれなかった。リゼットのために何かをしてくれたことも、一度もなかった。
それが「普通」だと思っていた。
自分は、そういう扱いを受ける程度の人間なのだと。
なのにこの人は、道端の見知らぬ女に、何の見返りも求めず手当てをし、外套までかけてくれる。
「あの。お名前だけでも……お礼をしたいので」
「セドリック、と。ただの旅人ですよ」
ただの旅人にしては、供の者が遠くに控えているのが見えた。白銀の馬車も。
――蒼い隼の紋章。
「あなたは?」
「リゼット……セレブリャコフと申します」
旧姓を名乗った。もうヴォルコフではない。
「リゼット」
名前を呼ばれただけなのに、胸が震えた。
三年間、名前で呼ばれたことがどれだけ少なかったか。アンドレイはいつも「お前」だった。使用人は「奥様」とは呼んだが、それは役職名のようなものだ。
この人は、私の名前を呼んだ。
「リゼットさん、次の宿場町までお送りしましょう。こんな道を一人で歩かせるわけにはいかない」
「いえ、そんな……見ず知らずの方にご迷惑を」
「迷惑?」
セドリックは少し首を傾げ、それから静かに言った。
「困っている人に手を差し伸べることを迷惑とは言いません。少なくとも、私の国ではそうです」
――私の国。
やはり、この人は。
「どうか遠慮なく。馬車は広い。……それに」
セドリックはリゼットの手を見た。先ほど手当てをした手。
「その手は、大切にされるべきだ」
意味深な言葉の真意を問う前に、セドリックは立ち上がり、リゼットに手を差し出した。
迷った。
でも――膝は痛むし、秋の朝は寒い。そしてこの人の手は、温かそうだった。
リゼットはその手を取った。




