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屋敷を出ると、秋の風が冷たかった。
辺境伯である父の領地まで、馬車で三日。路銀は、領地管理の報酬として正当に受け取っていた分がある。贅沢をしなければ、しばらくは生きていける。
乗合馬車の停留所まで歩く。
公爵夫人が供もつけずに一人で歩いている。それがどれほど異常なことか、すれ違う人々は誰も気づかない。
――ま、そうよね。
私はいつだって、誰の目にも留まらなかった。
地味な栗色の髪。特別に美しくもない顔。華やかな社交の場では壁の花。
アンドレイが私との婚姻を「無意味」と呼ぶのも、わからなくはない。
彼が望んでいたのは、フローラのような華やかで、明るくて、自分を慕ってくれる女性だったのだろう。
帳簿を読み、薬草を煎じ、領民の嘆願書を分類するだけの、地味な妻ではなく。
「…………」
わかって、いたのだ。
最初から。
それでも、もしかしたら、と思ってしまった三年間が、私の愚かさの証明。
もう、終わりにしよう。
◇
乗合馬車を待つ間、街道に一台の馬車が通りかかった。
見たことのない紋章。この国のものではない。
白銀の車体に、蒼い隼の意匠。
――隣国、ヴェルグリア帝国の紋章だ。
外交の使節だろうか。時折この街道を通ると聞いたことがある。
馬車はゆっくりと私の横を通り過ぎ――
ふと、窓の帷がわずかに揺れた。
その隙間から、視線を感じた。
一瞬だけ見えた、深い蒼の瞳。陽光に透ける金の髪。
まるで、絵画の中の人物がこちらを見ているような。
息を、忘れた。
けれど馬車はそのまま通り過ぎていき、帷は再び閉じた。
「……何だったのかしら」
首を傾げる私の耳に、停留所で待っていた商人らしき男たちの会話が聞こえた。
「なぁ、聞いたか。ヴェルグリアの皇太子殿下が、じきじきにこの国を訪れるらしい」
「ああ、聖女を探しているって話だろ? 百年に一人の、癒しの力を持つ聖女。どこの国にも見つからなくて、最後の望みでこっちに来るんだと」
「聖女ねえ……そんなもの、この国にいるのかよ」
「さあな。でも皇太子殿下が自ら動くってことは、よっぽど切羽詰まってんだろうよ」
聖女。
その言葉に、右手がかすかに疼いた。
昔から、傷ついた動物に触れると手のひらが温かくなることがあった。領民の子供が熱を出した時、私が額に手を当てるとなぜか翌朝には治っていた。
偶然だと思っていた。ずっと。
「――乗合馬車、参りましたよ!」
御者の声に我に返り、私は鞄を持って立ち上がった。
馬車に乗り込む。
窓の外を、あの白銀の馬車が遠ざかっていくのが見えた。
蒼い隼の紋章が、秋の陽に光っている。
――聖女を探している、皇太子。
私には関係のない話だ。
今はただ、実家に帰ること。それだけを考えよう。
馬車が揺れ始める。ヴォルコフの屋敷が、少しずつ小さくなっていく。
三年間の日々が、遠ざかっていく。
さようなら、アンドレイ。
あなたの望み通り、いなくなります。
お前がいなくなっても何も変わらない――そう、あなたは言うのでしょうね。
ええ、きっとそうだと、私も思っていました。
今は、まだ。
◇
その日の夜。
ヴォルコフ公爵邸の厨房では、料理長が頭を抱えていた。
「奥方様の献立表がない……明日の仕入れ、どうすればいいんだ?」
執事は書斎で帳簿を開き、眉をひそめた。
「この計算式は……奥方様にしかわからんぞ」
薬草園の手入れ係が駆け込んできた。
「すみません、奥方様はどちらに? 明日の調合の指示をいただかないと……」
誰もが、リゼットを探していた。
そして書斎の机の上に置かれた一枚の紙を、まだ誰も見つけていなかった。
第1話 了




