E-1
ヴェルグリア帝国の春は、隣国よりも遅く来る。
長い冬が終わり、宮殿の庭園に最初の花が咲いた日。
リゼットは朝から薬草園にいた。
皇太子妃専用の薬草園。セドリックが「公的な理由で」用意させたもの。公的な理由の割に、リゼットの好きな品種ばかりが植わっている。
「大きく、立派に育ってね、大事な薬草たち……」
リゼットの手が、薬草をそっと撫でる。淡い光が、優しく薬草を照らしている。
「話しかけているんですか、薬草に」
振り返ると、セドリックが庭園の入り口に立っていた。正装ではなく、白いシャツに薄手の上着。公務の合間に抜け出してきた顔。
「薬草に話しかけると育ちが良くなるんです」
「根拠は」
「ありませんが、経験則として確かです」
「では私にも話しかけてください。育ちが良くなりたいので」
「皇太子様より育ちの良い人は、この国にいないはずです。身長のほうも、もう十分育っています」
そう言って、リゼットはセドリックを見上げてみせた。薬草にちょっと嫉妬していそうな表情を見て、思わず可笑しくなる。
「薬草たちに水分が必要なように、私にも、定期的な補給が必要です」
リゼットは泥のついた手袋を外して、セドリックの前に立った。
背伸びをして、頬にキスを落とす。
「愛情、補給です」
セドリックの耳が赤くなった。
結婚して半年経つのに、未だに少年のような反応をする。
「……まだ、足りません」
「欲張りですね」
「あなたの前でだけ」
もう一度、今度は唇に。短く、軽く。
「これで」
「もう一回」
「公務に遅れますよ」
「遅れていい」
「皇太子が公務を疎かにしてどうするんですか」
「皇太子妃が美しいのが悪い」
「薬草を植えて泥まみれの妻のどこが美しいんですか」
「全部」
真顔で言うのが、この人のずるいところだ。
◇
昼。
宮殿の食堂で、二人は向かい合って昼食を取っていた。
テーブルの上には、いつも通り焼き菓子が添えられている。
「今日の焼き菓子、新作だそうです。菓子職人が張り切っていました」
「皇太子妃様のお好みを研究している、と言っていましたよ」
「私のために新作を……」
「当然です。この宮殿で最も焼き菓子に真剣な人物は、あなたですから」
「それは名誉なのでしょうか」
「最大級の名誉です」
一口食べる。
バターの風味が豊かで、ほんのり蜂蜜の香りがする。中にはドライフルーツが練り込まれていた。
「……美味しい」
「どれくらい美味しいですか」
「世界一です」
「先週も同じことを言っていましたね」
「毎週更新されるんです、世界一が」
セドリックが笑った。
リゼットも笑った。
侍従たちは、もうこの光景に慣れていた。皇太子殿下と皇太子妃殿下が、昼食のたびにデザートの焼き菓子をつまみながら、談笑して、時に真剣な議論を交わす。
「殿下。そろそろ、午後の会議のお時間です」
「……今、大事な会議の最中なんですが」
「国政の会議です」
侍従もいつものこととばかりに、有無を言わさずに言う。
「わかりました、向かいます」
セドリックが立ち上がりかけて、リゼットの方を振り返った。
「夕方の茶の時間には戻ります」
「行ってらっしゃい」
何気なく言った言葉に、セドリックが一瞬足を止めた。
「……今、何と」
「行ってらっしゃい、と」
「もう一回言ってください」
「行ってらっしゃい」
セドリックの表情が蕩けた。他に表現のしようがない。
「……行ってきます」
侍従に引きずられるようにして出て行った。
残されたリゼットは、焼き菓子をもう一つ手に取りながら呟いた。
「……大げさな人」
でも、口元は笑っていた。
◇
午後。
リゼットは聖女としての巡回に出ていた。
帝都の医療院を回り、重病の患者に浄化の光を当てる。
「聖女様、ありがとうございます……娘の熱が下がりました……」
「よかった。この薬草茶を毎朝飲ませてあげてください。回復が早くなります」
「薬草茶まで……聖女様は本当にお優しい……」
聖女の力だけではない。薬草学の知識。領地管理で培った実務能力。人の話を聞く姿勢。
リゼットの価値は、聖女であること以上に、リゼットであることそのものにあった。
セドリックが最初に言った通りだった。
「あなたの価値は、聖女であるかどうか以前の問題です」
あの言葉を、今なら信じられる。




