E-2
夕方。
約束通り、セドリックが茶の時間に戻ってきた。
庭園のテーブル。焼き菓子。紅茶。春の夕風。
「会議はどうでしたか」
「あなたがまとめた農政改革案が全会一致で承認されました」
「それはよかった」
「よかったで済ませないでください。貴族院の老人たちが全員感嘆していましたよ。『皇太子妃殿下の精緻な計算の前には反論の余地がない』と」
「数字は正直ですから」
「また、そんなふうにさらっと言われると、惚れ直すしかありませんね」
リゼットが紅茶を吹きそうになった。
「……お行儀が悪い」
「あなたが変なことを言うからです」
「変ではなく、愛情表現です」
穏やかな時間が流れる。
茶のカップを置いて、リゼットは庭園を見渡した。
春の花が咲き乱れている。白い花、蒼い花、薄紫の花。
ふと、テーブルの端に小さな花束が置いてあることに気づいた。
白い野花。
街道沿いに咲く、あの秋の花ではない。春の品種。だが、同じ種類の花。
「……これ」
「覚えていますか。最初に用意した花と同じ種類です。春咲きの品種を庭師に頼んで育ててもらいました」
あの日――辺境伯邸の朝食のテーブルに、セドリックが添えてくれた花。
庭師のおじいさんに聞いて、リゼットが好きだった花を用意してくれたのを、昨日のことのように覚えている。
「季節が変わっても咲くように。一年中、あなたの好きな花が見られるように」
「…………」
「公的な理由は、ありません」
リゼットは花束を手に取った。
小さな花。ささやかな花。でも、この人が自分のために、一年がかりで準備してくれた花。
その『私的な愛情』が、どうしようもなく嬉しくて、愛しい。
「……泣きませんよ」
「泣いていいですよ」
「泣きません。嬉しすぎて涙が出ているだけです」
「それは泣いています」
「泣いていません」
セドリックが笑って、ハンカチを差し出した。
リゼットはそれを受け取らず、自分の袖で目元を拭った。
「……ハンカチ、使ってください」
「自分でできることは自分でします」
「その癖はいつ直るんですか」
「直りません。一生」
「では一生、隣でハンカチを差し出し続けます」
「無駄になりますよ」
「無駄でも構いません」
春の風が吹いた。
花びらが舞う中で、二人は紅茶を飲んだ。
何も特別なことのない、ただの夕方。
でもリゼットは知っている。
この「何も特別なことのない夕方」が、どれほど特別なものか。
三年間、一度も持てなかったもの。
穏やかな食卓。温かい紅茶。隣で笑ってくれる人。
「行ってきます」と「行ってらっしゃい」「ただいま」と「おかえりなさい」
そんな挨拶を、毎日当たり前のように交わせること。暖かくて優しい、自分のための居場所があること。
それが幸福の本質だと、今のリゼットは知っている。
◇
夜。
寝室。
セドリックがリゼットの髪を梳いている。隔日の約束だったが、結局ほぼ毎晩になっていた。
「セドリック」
「はい」
「今日も一日、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「明日もよろしくお願いしますね」
「明日も、明後日も、その先も」
「……欲張りですね」
リゼットは目を閉じた。
セドリックの指が髪を梳く、穏やかな感触。
三年前、一人で眠っていた夜が、もう遠い昔のことのように思える。
今は隣に温もりがある。
毎朝、目を開ければそこにある温もり。
「おやすみなさい、セドリック」
「おやすみ、リゼット」
手のひらが、柔らかな光を放つ。
今、リゼットはとても幸福だ。だからもう、聖女の力が、自分自身を癒すために使われることはない。手のひらから溢れ出る祝福の光は、リゼットの心が満たされている証明でもある。
幸せに呼応するように灯る手のひらは、今日も光を湛えていた。
明日も、きっと。
エピローグ 了
三年間名ばかりの妻でしたが、離縁届を置いて出ていきます。――え、隣国の皇太子が私を望んでいる? もう遅いですよ、旦那様
❤ FIN ❤




