8-3
フローラ・メルニク。
かつてアンドレイの愛人として公爵邸に君臨した男爵令嬢は、今、王都の社交界の隅に追いやられていた。
公爵邸を出た後、別の貴族の元に身を寄せたが、リゼットの聖女認定と皇太子妃就任の報が広がると、風向きが変わった。
「あの方、聖女様を追い出した公爵の愛人だったんですって」
「聖女様を冷遇した家に居座っていた女ですってよ」
「まあ。恥知らずな」
社交界の目は容赦がなかった。
フローラを受け入れていた貴族も、聖女の名声が高まるにつれて距離を置き始めた。ヴェルグリアとの外交関係を考えれば、聖女を虐げた側に与するのは得策ではない。
「あの地味な女が、聖女ですって……? 信じられない。私の方がずっと華があるわ……!」
フローラの言葉に耳を傾ける者は、もういなかった。
彼女は最後まで、リゼットの価値を理解できなかった。
その事実が、彼女の思慮の浅さを、愚かさを示していた。
華やかさだけが取り柄だった女が、華やかさすら失っていく。
静かに、確実に。
◇
季節は巡り、冬が来た。
ヴェルグリア帝国の冬は、隣国よりもずっと雪が深い。
宮殿の庭園は一面の銀世界。
リゼットは窓から雪景色を眺めていた。
手のひらを開く。淡い光が灯る。もう自在に操れるようになっていた。
「何を見ていますか」
セドリックが背後から声をかけた。
「雪。……ヴォルコフの屋敷でも雪は降りましたが、一人で見ていたから、寒かった」
「今は?」
「温かい。あなたがいるから」
セドリックがリゼットの隣に来て、一緒に窓の外を見た。
「リゼット」
「はい」
「幸せですか」
アンドレイが最後に訊いた問い。同じ言葉。
でも響きが全く違う。
アンドレイは自分が与えられなかったものを、他の誰かが与えているのかと確かめるために訊いた。
セドリックは自分が与えているものが、ちゃんと届いているかを確かめるために訊いている。
「幸せです」
同じ答え。でもこちらの方が、ずっとずっと、自然に出てきた。
「あなたは?」
「私?」
「私ばかり訊かれますが、あなたはどうなんですか」
セドリックは少し驚いた顔をした。
それから、照れたように笑った。
耳が赤かった。もう数えるのはやめたはずだが、反射的に数えてしまう。
「……幸せですよ。こんなに幸せでいいのかと思うくらい」
「いいんです。いいに決まっています」
窓の外で、雪が静かに降り続けている。
「セドリック」
「はい」
「一つ、言いたいことがあります」
「何でしょう」
リゼットはセドリックの方を向いた。
蒼い瞳を、真っ直ぐに見つめた。
「あの日、街道で泣いていた私に、手を差し伸べてくれてありがとうございました」
「……それは、もう何度も」
「最後まで聞いてください」
セドリックが口を閉じた。
「外套をかけてくれて、ありがとう。馬車に乗せてくれて、ありがとう。名前を呼んでくれて、ありがとう。花を用意してくれて、ありがとう。ドレスを選んでくれて、ありがとう。焼き菓子を忘れないでくれて、ありがとう。美しいと言ってくれて、ありがとう。十年待つと言ってくれて、ありがとう。隣にいてくれて、ありがとう」
一つずつ。
二人の間にあった全てのことを、一つずつ。
「私の手を握ってくれて、ありがとう。私を見つけてくれて、ありがとう」
声が震えた。
「あなたに出会えて、本当に、よかった」
セドリックの蒼い瞳が、潤んでいた。
この人が泣きそうになるのを見るのは、初めてだった。
「……ずるい」
「何がですか」
「全部言われたら、返す言葉がない」
「では一言だけ、返してください」
「一言?」
「はい。私が、どこかへ出かけて。ここに、あなたのそばに、帰ってきた時に――」
セドリックはその言葉の真意を察して、潤んだ目のまま、優しく笑った。
そして、深く息を吸い、言った。
「――おかえりなさい」
リゼットの目から涙がこぼれた。
おかえりなさい。
三年間、誰にも言ってもらえなかった言葉。
屋敷に帰っても「おかえり」はなかった。実家に戻っても「おかえり」はなかった。
ここが自分の居場所だと、この人の隣が自分の帰る場所だと。
たった一言で、全部が伝わった。
「……ただいま」
セドリックがリゼットを抱きしめた。
雪の降る窓辺で。
二人の手のひらが、温かく光っていた。
第8話 了
これは、ある一人の女性の物語。
三年間、名ばかりの妻だった女性が、自分の足で歩き出し、自分の価値を取り戻し、自分の居場所を見つけた物語。
彼女の手のひらは、今日も光っている。
誰かを癒すために。
大切な人を守るために。
そして、自分自身を愛するために。




