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リゼットが皇太子妃となってから、ヴェルグリア帝国は目に見えて変わり始めた。
聖女の力だけではない。
リゼットは帳簿を読む女だった。薬草を育てる女だった。領民の声を聞く女だった。
その類稀なる能力が、一領地ではなく、一国家の規模で発揮され始めた。
帝国の農政改革。リゼットの薬草学の知識を基にした医療制度の整備。領地間の税収格差の是正。孤児院への支援拡充。
「皇太子妃様は、宮殿にこもらないお方なのだな」
「市場に来られた時、うちの子供の風邪を治してくださった」
「ご自身で帳簿を開いて、税制の改革にも取り組まれているらしい」
「聖女様は、本当の意味でこの国の宝だ」
民の声が広がっていく。
セドリックは執務室で、リゼットの改革案に目を通しながら苦笑していた。
「妻に国政で負けそうなんですが」
「負けそう、ではなく、負けていますよ。今期の農政改革案、あなたの案より私の案の方が収支改善率が高いです」
「数字で殴られるとは」
「数字は正直ですから」
◇
リゼットの活躍は、大陸中に伝わった。
当然、隣国にも。
かつてリゼットを嘲笑った人々の耳にも。
◇
セレブリャコフ辺境伯邸。
リゼットの父は、娘からの手紙を読んでいた。
定期的に届く手紙。帝国の近況。新しい薬草の研究成果。そして、元気でいるという報告。
手紙の末尾には、いつもこう書かれていた。
「お父様もお体にはお気をつけて。同封の薬草茶は、冬の冷えに効きます」
出戻りと冷たく扱い、使用人棟に押し込んだ娘が、今も父の体を気遣っている。
辺境伯は手紙を握りしめ、長い間黙っていた。
弟のニコラが部屋に入ってきた。
「父上。姉さんから荷物が届きました。辺境伯領の農地改良に使える新種の種子だそうです。ヴェルグリアの最新品種で、寒冷地に強いと」
「……そうか」
「あと、これ。僕宛の手紙です」
ニコラが手紙を開く。
『ニコラへ。風邪を引きやすい季節になりました。薬草茶の調合、ちゃんとやっていますか。今度の調合は前のより飲みやすくしたので、試してみてね。――あと、今度は本心で話して、と言ったこと、覚えていますか。手紙でもいいから、あなたの言葉で話してくれたら嬉しいです』
ニコラは手紙を読み終えて、しばらく動かなかった。
それからペンを取り、便箋に向かった。
『姉さん。ごめん。あの時、ひどいことを言った。姉さんがいなくなって初めてわかった。この家は姉さんに甘えていた。僕も、父上も。今さら遅いかもしれないけど、言わせてほしい。――おめでとう。幸せそうで、本当によかった』
◇
ヴォルコフ公爵邸。
かつて華やかだった屋敷は、質素なものに変わっていた。
不要な装飾は売り払われ、使用人は最小限に。
アンドレイは自ら帳簿に向かっていた。
リゼットが残した帳簿を、一から読み解こうとしていた。数字の羅列が、少しずつ意味を持ち始めている。
彼女がどれほど精緻にこの領地を管理していたか。どれほどの知識と労力を注いでいたか。帳簿の一行一行から、それが伝わってくる。
三年分の帳簿は、三年分の献身の記録だった。
ページの隅に、小さなメモ書きがあった。
『春の作付け前に領民のトーマスさんに確認。腰を悪くしているので、南側の畑は軽い作物に変更すること』
領民の体調まで把握していたのか。
別のページにも。
『使用人のマリアの息子が来月入学。祝いの品を手配すること。予算は私の裁量費から』
自分の裁量費から。公爵家の経費ではなく。
リゼットは、自分のなけなしの報酬から使用人の子供に祝いを贈っていた。
アンドレイは帳簿を閉じて、額に手を当てた。
「……見なかったのは、俺だ」
執事のイヴァンが紅茶を持ってきた。
「旦那様。お客様がお見えです」
「客? 誰だ」
「隣の領地の男爵様です。境界線の水路の件でご相談とのことですが……以前は、奥方様が全て対応されていた案件です」
「……わかった。通してくれ」
アンドレイは立ち上がった。
一つずつだ。リゼットが積み上げていたものを、一つずつ理解して、一つずつ自分でやっていく。
それが、彼にできる唯一の贖罪だった。
「イヴァン」
「はい」
「ヴェルグリアの日刊紙を取り寄せてくれ」
「……よろしいのですか」
「ああ。……あいつが何をしているか、知っておきたい」
イヴァンは何も言わず頷いた。
窓の外では、更地だった薬草園に、小さな芽が出ていた。
リゼットが植えた種のうち、一つだけ生き残ったものが、冬を前にしてようやく芽を出した。
アンドレイはそれに気づいていなかった。
だがイヴァンは気づいていた。水をやっていたのも、イヴァンだった。
奥方様が遺されたものを、枯らすわけにはいかない。




