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婚約が発表されてから、一ヶ月が過ぎた。
ヴェルグリア帝国は、聖女と皇太子の婚礼の準備で華やいでいた。
街には祝いの旗が掲げられ、市場では「聖女様の祝福焼き菓子」なる限定品が飛ぶように売れている。
「……私の名前がお菓子についているんですが」
「美味しいですよ。食べましたか?」
「セドリック。あなた買ったんですか」
「三箱」
「なぜ三箱」
「一箱は味見用。一箱はあなたと食べる用。一箱は保存用です」
「保存してどうするんですか」
「将来、子供に『お父様とお母様の婚礼の時にはこんなお菓子が売られていたんだよ』と見せます」
子供。
不意に出てきた言葉に、リゼットの顔が真っ赤になった。
「き、気が早すぎませんか」
「計画的と言ってください」
「計画と言うよりは、妄想に見えます」
「妄想でも構いません。あなたとの妄想なら、いくらでも」
朝食の席で、こんな会話が日常になっていた。
◇
婚礼は、秋の終わりに行われた。
ヴェルグリア帝国の歴史に残る盛大な式だった。大聖堂に大陸各国の要人が集い、聖女の婚礼を祝った。
純白のドレスに身を包んだリゼットが、大聖堂の通路を歩く。
一歩ごとに、手のひらが淡く光った。祝福の光。大聖堂の中が、柔らかな白い光に満ちていく。
参列者たちが息を呑んだ。
「これが……聖女の祝福の光……」
「百年に一度どころではない。伝説の光だ」
「なんと美しい……」
通路の先に、セドリックが立っていた。
正装の白い軍服。金の髪に銀の冠。大国の皇太子としての、最も正式な姿。
だが、リゼットが近づくと、その唇がわずかに動いた。
声にならない声。リゼットにだけ読み取れた。
「綺麗だ」
九回目。
いや、もう数えるのはやめよう。これからは毎日だ。
祭壇の前で、手を取り合った。
司祭の言葉が響く中、セドリックがリゼットの耳元に囁いた。
「緊張していますか」
「……少し」
「私もです」
「嘘ですね。堂々としていますよ」
「表面だけです。心臓は今、過去最高速です」
「……こんな時まで」
「こんな時だからこそ」
司祭が宣言した。
「誓いの口づけを」
セドリックがリゼットの顔を両手で包んだ。
「一生、あなたを大切にします。公的にも、私的にも。……むしろ私的な理由の方が多いですが」
「知ってます」
唇が重なった。
大聖堂が拍手と歓声に包まれた。
光が、二人を中心にして大聖堂の天井まで昇っていった。
ステンドグラスを通り抜けて、外の空まで届くほどの、祝福の光。
帝都の人々は空を見上げた。
「聖女様の光だ……!」
「皇太子殿下と聖女様の婚礼の光だ……!」
街中が歓声に包まれた。
◇
婚礼の夜。
皇太子妃の居室――もう正式にそう呼ばれている――で、リゼットはドレスの裾を畳んでいた。
「侍女に任せればいいのに」
「自分でできることは自分でします。三年間の癖ですね」
「その癖は、ゆっくり直していけばいい。今日くらいは甘えてください」
「今日くらいは。……では、一つだけ」
「何でも」
「髪、解いてもらえますか」
セドリックの手が止まった。
それから、ゆっくりと近づいてきた。
リゼットの背後に立ち、銀の冠を外す。髪留めを一つずつ抜いていく。栗色の髪がするりと背中に落ちた。
指が髪を梳く。丁寧に。ゆっくりと。
「……三年間、こうしてもらったことはなかったでしょう」
「ありませんでした」
「これからは毎晩でも」
「毎晩は多すぎます」
「では隔日で、いかがですか」
「なんだか、交渉ごとみたいですね」
「ある意味、国家間の交渉より重要です」
リゼットが笑った。
セドリックの指先が、髪を梳きながら、時折うなじに触れる。意図してか、意図せずか。触れるたびに、リゼットの肩が小さく震えた。
「……セドリック」
「はい」
「手、止まっていますよ」
セドリックは答えずに、そっとリゼットを振り向かせた。
向き合った距離は、もう指一本分もなかった。
「今夜は、皇太子と聖女の婚礼の夜ではなく」
「……ではなく?」
「セドリックとリゼットの、夜です」
唇が重なった。
昼間の大聖堂でのキスとは違う。儀式のキスではなく、ただ二人だけのための、静かで深いキス。
自然に手と手が触れ合い、指と指が絡み合う。
窓から射す月明かりの中で、二人の手のひらが重なって、淡く光っていた。




