7-3
その日の夕方。
宮殿の訓練場で、リゼットは最後の試験に臨んでいた。
聖女の正式認定試験。
神官団の長老たちが並ぶ前で、リゼットは両手を掲げた。
訓練場の中央には、災厄の模擬装置が置かれている。黒い瘴気を放つ魔石。これを浄化できれば、聖女として正式に認められる。
瘴気が広がっていく。黒い霧が訓練場を覆い、長老たちの顔が曇る。
「この瘴気の密度……本番とほぼ同等だぞ。候補の段階で浄化できるのか?」
リゼットは目を閉じた。
手のひらに意識を集中する。
温かさが生まれる。いつもの、あの温かさ。
傷ついた動物を癒した時の温かさ。領民の子供の熱を下げた時の温かさ。
セドリックに触れた時の温かさ。
セドリックに愛された時の温かさ。
全部、同じ源から来ている。
誰かを想う力。誰かを守りたいという力。
そして――自分自身を、もう傷つけなくていいという力。
三年間、自分を守るために使われていた力が、今、全て外に向かう。
目を開いた。
両手から、白い光が溢れた。
光は奔流となって瘴気を飲み込んだ。黒い霧が消えていく。隅々まで。一片も残さず。
訓練場が、白い光に満たされた。
長老たちが立ち上がった。
「完全浄化……! 候補の段階で完全浄化だと……!?」
「これは歴代最高どころではない……前例がない……!」
「聖女だ。正真正銘の聖女だ」
ざわめきが歓声に変わった。
リゼットは両手を下ろした。
光が収まっていく。手のひらがほんのりと温かい。
顔を上げると、訓練場の入り口にセドリックが立っていた。
いつから見ていたのだろう。壁に背を預けて、腕を組んで。
目が合った。
セドリックが、静かに拍手した。
一人だけの拍手。それが、何百人の歓声よりも嬉しかった。
◇
その夜。
宮殿の大広間で、聖女の正式認定と祝賀の宴が開かれた。
ヴェルグリアの貴族たち、神官団、各国の外交官。大広間は人で溢れていた。
リゼットは純白のドレスに身を包んでいた。聖女の正装。銀の冠が栗色の髪に映えている。
三年前、地味な辺境伯令嬢として公爵家に嫁いだ女が、今、大国の聖女として大広間の中央に立っている。
「聖女リゼット・セレブリャコフ。ヴェルグリア帝国は、あなたを我が国の守護者として正式にお迎えする」
皇帝陛下自らの宣言。
大広間が割れんばかりの拍手に包まれた。
リゼットは深く礼をした。顔を上げると、玉座の隣にセドリックが立っていた。
正装の軍服。金の髪に蒼い勲章。
昼間の穏やかな青年ではなく、大国の皇太子としてのセドリック。
だがその瞳だけは、リゼットを見つめる時だけ柔らかくなった。
宴が進む中、セドリックがリゼットの元に来た。
「お疲れ様でした」
「セドリック様。……あ、人前なので、様をつけます」
「残念です」
「夜になったら外します」
「それは楽しみだ」
何食わぬ顔で交わされる会話を、周囲の貴族たちが遠巻きに見ていた。
「あの二人、ただの聖女と皇太子の関係ではないわね」
「皇太子殿下の目を見ればわかるでしょう。あれは完全に恋をしている目ですわ」
「聖女様も、殿下の前でだけ表情が変わるのよ。お気づき?」
囁きが広がる。
セドリックはそれを気にする様子もなく、リゼットにグラスを差し出した。
「今夜は特別な夜です。あなたの力が正式に認められた」
「皆様のおかげです」
「謙遜はいいですよ。あなたの力です。あなたが三年間耐え抜いた強さが、今日花開いた」
「……セドリック様がいなければ、私は今もあの街道で一人でした」
「街道で拾った恩を、一生かけて回収させてください」
「拾った、とは。人聞きが悪いですね」
「では、出会った」
「まだ弱い」
「……見つけた」
リゼットが微笑んだ。
「それが一番、正しい気がします」
セドリックがグラスを掲げた。
「では、二人の出会いに。……いや、巡り合いに」
「巡り合いに」
グラスが触れ合った。澄んだ音が、喧騒の中で二人だけに聞こえた。
◇
宴の終わり際。
セドリックがリゼットの手を取り、大広間の中央に導いた。
ざわめきが静まる。全員の視線が二人に注がれた。
「本日の宴に際し、もう一つ、皆様にお伝えしたいことがあります」
セドリックの声が広間に響いた。
皇太子の声。国を率いる者の声。
「聖女リゼット・セレブリャコフを、私は――」
一拍の静寂。
「皇太子妃として、迎えたい」
大広間が揺れた。
歓声、驚き、どよめき。
リゼットはセドリックを見上げた。
「……聞いてません」
「言ったら断られそうだったので」
「断りませんよ」
「……本当に?」
「本当に」
セドリックの表情が変わった。
皇太子の顔が崩れて、ただの、恋をしている青年の顔になった。
耳が赤い。
八回目だった。
「……よかった」
声が震えていた。
この人は、こんなに大きな場でこんな大きなことを言っておきながら、断られることを本気で怖がっていたのだ。
リゼットはセドリックの手を握った。
強く。
大広間の全員の前で。
「――こちらこそ。よろしくお願いいたします」
拍手が湧き上がった。
花弁が舞った。
グラスが掲げられた。
リゼットの手のひらが、祝福するように淡く光っていた。
◇
宴の翌日。
ヴェルグリアの日刊紙の一面は、聖女と皇太子の婚約で埋め尽くされた。
その紙面は大陸中に伝わった。
当然、隣国にも。
ヴォルコフ公爵領の屋敷で、アンドレイはその紙面を見つめていた。
聖女リゼット、皇太子妃へ。
写真はなかったが、挿絵があった。白いドレスの聖女と、金髪の皇太子が手を繋ぐ絵。
「……皇太子妃、か」
呟いた。
自分が「無意味」と呼んだ女が、大陸最強の国の皇太子妃になる。
自分が「いなくなっても変わらない」と言った女が、一国の守護者として崇められている。
イヴァンが紅茶を持ってきた。
「旦那様。……お体に障ります」
「ああ」
紅茶を一口飲む。
まずかった。リゼットが淹れてくれた紅茶は、もっと美味しかった。
リゼットが淹れてくれた紅茶。
そんなものがあったことすら、いなくなってから知った。
「イヴァン」
「はい」
「リゼットは……幸せそうだったか。あの国で」
イヴァンは少し間を置いて答えた。
「幸せそうでございました。……旦那様の前では一度もお見せにならなかった笑顔で」
刃物のような一言だった。
アンドレイは紅茶のカップを置いた。
「そうか」
それだけ言って、窓の外を見た。
秋が終わろうとしている。庭園の木々は枯れかけている。かつてリゼットが手入れしていた薬草園は、更地になっていた。
「……馬鹿だな、俺は」
誰に言うでもなく、呟いた。
返事はなかった。
第7話 了




