7-2
午後。
宮殿の小広間。
前回の謁見の間とは違い、小さな部屋が選ばれた。公式の場ではなく、私的な対話の場。
リゼットが先に入り、窓辺に立った。
今日のドレスは、セドリックが贈った淡い蒼色。ヴェルグリアの空の色。もう隣国の服は着ていない。
セドリックは扉の近く、少し離れた位置に立った。見守る距離。
扉が開いた。
アンドレイが入ってきた。
最初に感じたのは、この人がどれだけ変わったか、だった。
灰色の瞳が疲弊している。銀の髪は整えられているが、以前のような威圧感がない。覇気が抜け落ちている。
五日前の謁見の間では、まだ怒りがあった。プライドがあった。「戻ってこい」と命じる傲慢さが残っていた。
今は、それすらない。
ただ、疲れた男が立っているだけだった。
「……時間を取らせて悪い」
アンドレイの声も、変わっていた。低く、掠れて。命令の口調はなかった。
「いいえ。あなたが話したいと言うなら、聞きます」
リゼットは静かに答えた。
アンドレイは少し間を置いて、口を開いた。
「聞きたいことがある。俺にではなく……お前自身に問いかけることだが」
「何でしょう」
「お前は、幸せか」
予想していなかった問いだった。
「……この国で。あの皇太子の隣で。お前は、幸せか」
リゼットはアンドレイを見つめた。
三年間毎日見ていた顔。嫌いだったわけではない。最初は、好きになろうとさえした。
でもこの人は、三年間一度もこの問いをしなかった。「お前は幸せか」と。一度も。
「……はい」
答えた。
「幸せです」
短い言葉だった。だが、それだけで十分だった。
アンドレイが目を閉じた。
長い沈黙。
「……そうか」
目を開いた時、灰色の瞳が濡れていた。
泣いているわけではない。ただ、潤んでいた。この男が、他人の前で見せたことのない弱さ。
「謝罪する」
「え?」
「三年間。お前にしたこと。しなかったこと。全部。……謝って済む話ではないことは、わかっている」
リゼットは黙って聞いていた。
「お前が屋敷を回していた。領地を支えていた。俺はそれを見なかった。見ようとしなかった。フローラに溺れて……いや、溺れていたわけですらない。ただ、楽な方に流れていただけだ」
声が、絞り出すようだった。
「お前を無意味と呼んだ。いなくなっても変わらないと言った。……変わった。何もかも。帳簿の管理は誰にもできない。薬草園の薬草は枯れて全滅した。領民からの信頼は地に落ちた。フローラは……」
言葉を切った。
「フローラはどうされましたか」
「屋敷を出ていった。俺が領地の立て直しで忙殺されている間に、別の貴族の元へ。金目のものを持てるだけ持って」
リゼットは驚かなかった。予想していたから。
フローラが愛していたのはアンドレイではなく、公爵家の財産と地位。それが傾けば、去るのは当然。
だが、それを今のアンドレイに言うのは残酷すぎた。
「……お前が去った後、屋敷に残ったのはイヴァンと数人の古参だけだった。若い使用人は条件の良い家に移った。お前が引き留めていたんだろう。お前がいたから、あいつらは残っていた」
知らなかった。使用人たちが自分を慕ってくれていたなんて。
いや――知っていた。心のどこかでは。でも信じるだけの気持ちの余裕がなかった。
「アンドレイ」
名前で呼んだ。初めてだった。三年間、一度も名前で呼んだことがなかった。いつも「旦那様」だった。
アンドレイの目がわずかに見開かれた。
「謝罪は受け取ります。それだけはちゃんと伝えます」
「…………」
「でも、戻りません」
「わかっている」
「恨んでもいません」
「…………」
「あなたのおかげで今の私があるとは言いません。そんな綺麗な話ではない。あの三年間は苦しかった。辛かった。消えたいと思った夜もありました」
アンドレイの顔が歪んだ。
「でも、終わったことです。あなたが署名してくれたから、ちゃんと終わった。だから、ありがとう」
「……礼を言われるようなことは」
「署名してくれたことに対して、です。それは確かにあなたの決断だった」
リゼットは微笑んだ。
穏やかな、澄んだ微笑み。
アンドレイは、その微笑みに打たれたように動けなくなった。
三年間、一度も見たことのない顔。
この女は、笑うとこんな顔をするのか。
こんなにも、綺麗だったのか。
「……頼みがある」
アンドレイが掠れた声で言った。
「幸せに、なってくれ。……俺には結局、お前を幸せにできなかった。だから、せめて」
言葉が途切れた。最後まで言えなかった。
リゼットは静かに頷いた。
「なります。もう、なっています」
それが、二人の最後の会話だった。
◇
アンドレイが部屋を出ていく。
扉の前で一度だけ足を止め、振り返った。
リゼットの少し後ろに、セドリックが立っている。
二人の間にある空気が、もう自分には入り込めないものだと、アンドレイは理解した。
セドリックと目が合った。
蒼い瞳は、もう冷たくなかった。怒りもなかった。ただ、静かだった。
「ヴォルコフ公爵」
セドリックが口を開いた。
「この女性を手放した人間の愚かさを、私は生涯忘れない。忘れないことで、この方を生涯大切にし続ける」
侮辱ではなかった。
宣言だった。
アンドレイは何も言わず、頭を下げて部屋を出た。
廊下を歩く足音が遠ざかっていく。
もう振り返らなかった。
◇
アンドレイが去った後、リゼットは窓辺に歩み寄り、中庭を見下ろした。
アンドレイが馬車に乗り込むのが見えた。銀の髪が秋の光に反射している。
馬車が動き出す。
宮殿の門を出て、並木道を通り、やがて見えなくなった。
「……行きましたね」
「ええ」
セドリックが隣に来た。
「泣きませんでしたね」
「泣く理由がありませんから」
「強いですね」
「強いのではなく……ちゃんと終わった、という安堵です」
セドリックはリゼットの肩にそっと触れた。
「あなたは、謝罪を受け取った。恨んでいないとも言った。……あの男には、過分なほどの優しさだ」
「過分ですか」
「私なら許さない」
穏やかな声だったが、本音だった。
「あなたを三年間苦しめた人間を、私は許せない。あなたが許しても、私は許さない。それは私のわがままです」
「……わがままな皇太子ですね」
「あなたの前でだけ」
リゼットはセドリックの手を取った。自分から。
「では、わがままを一つ、私からも」
「何でも」
「今日のお茶の時間、焼き菓子を三つ追加してください」
セドリックが目を瞬いた。それから、声を出して笑った。
「三つと言わず十でも二十でも。皇太子の権限です」
「皇太子権限を濫用しすぎて、心配になります」
「ご心配には及びません。濫用するのは、あなたのためだけですから」
手を繋いだまま、二人は庭園に向かった。
秋の陽が傾き始めている。長い影が二つ、並んで伸びていた。




