6.5-2
廊下に立つセドリックも、昼間とは違う姿だった。
上着はなく、白いシャツの襟元が少しだけ開いている。金の髪が肩にかかっている。
「……起こしてしまいましたか」
「いいえ。眠れなかったんです」
「何か心配事が?」
「心配事、ではないのですが……」
言葉を探す。うまく見つからない。
「入って、いただけますか」
自分で言って驚いた。
セドリックも驚いていた。蒼い瞳がわずかに見開かれた。
「……いいのですか」
「はい」
声は小さかったが、確かだった。
セドリックが部屋に入る。扉が閉まった。
月明かりだけの部屋に、二人。
◇
窓辺に立つリゼットの背中に、セドリックが声をかけた。
「眠れない理由、聞いてもいいですか」
「……離縁届が、正式に受理されました」
「ええ」
「これで私は、誰のものでもなくなりました」
「……ええ」
「三年間の婚姻が終わって、ほっとしているはずなんです。でも、おかしなことを考えてしまって」
「おかしなこと?」
リゼットは振り返った。
月明かりの中、薄い寝巻きの輪郭が浮かんでいる。自分がどう見えているか、わかっていた。わかっていて、振り返った。
「三年間、私は一度も……夫婦として、扱ってもらえませんでした」
セドリックが息を止めた気配がした。
「初夜も。その後も。一度も。触れてもらったことがないんです」
声が震えた。恥ずかしさではなく、もっと深いところの痛みが滲んだ。
「だから、ずっと……自分の体は望まれないものなのだと思っていました。誰かに触れてもらう価値がないのだと」
「リゼットさん……」
「でも今夜、あなたのことを考えていたら」
月明かりの中で、リゼットの右手がかすかに光った。
「……体が、こんなに何かを求めることがあるのだと。初めて知りました」
沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。
セドリックが一歩近づいた。もう一歩。手が届く距離。
「一つ、確認させてください」
低い声だった。昼間の穏やかな声とは違う。もっと深い、もっと熱い。
「あなたが今、私を部屋に入れたのは。私に……触れてほしいから、ですか」
直球だった。
この人はいつも、大切なことを誤魔化さない。
「……はい」
リゼットも、誤魔化さなかった。
セドリックの手が伸びて、リゼットの頬に触れた。
指先だけ。それだけなのに、体の芯に火が灯ったような感覚が走った。
「怖くはありませんか」
「……少し」
「少しでも怖ければ、やめます。いつでも止められる。あなたが嫌だと言えば、どの瞬間でも」
「知っています。あなたがそういう人だと、知っています」
だから怖くない。
怖いのは別のことだ。
「怖いのは……私が、何も知らないことです。三年間、夫婦だったのに。何も」
セドリックの指が、頬から顎の線をたどり、唇のすぐ近くで止まった。
「では、教えます。一つずつ。あなたが望む速さで」
指が唇に触れた。
柔らかく。確かめるように。
リゼットの唇が震えた。
「セドリック、様……」
「……できれば今夜は、様をつけないでほしい」
「……セドリック」
名前を呼んだ瞬間、セドリックの自制が一枚剥がれた気配がした。蒼い瞳の奥に、押さえていた熱が浮かんだ。
「もう一度」
「セドリック」
唇が、重なった。
◇
初めてのキスは、驚くほど優しかった。
触れるだけ。唇の輪郭をなぞるだけ。それだけで、全身が震えた。
「……っ」
「大丈夫?」
「大丈夫、です。ただ……こんなに、震えるものだと思わなくて」
「初めてなら、当然です」
セドリックがリゼットの腰に手を回した。支えるように。包み込むように。
二度目のキスは、少しだけ深かった。唇が開いて、セドリックの舌先がそっと触れた。リゼットの体が跳ねた。
「ん……っ」
その反応に、セドリックが微かに笑った。
「素直ですね」
「もう、自分の気持ちを隠すのはやめたんです」
リゼットが笑った。笑ったら、少しだけ緊張がほどけた。
セドリックはそれを見てから、三度目のキスをした。
今度は深く。リゼットの口内に入り込んで、舌を絡めて、ゆっくりと味わうように。
頭が溶ける。酸素が足りない。でも離れたくない。
自分から舌を動かした。ぎこちなくて、多分下手で。でもセドリックが低く息を吐いた。
「…………リゼット」
名前の呼び方が変わった。もっと低く、もっと切実に。
その声を聞いた時、リゼットは確信した。
この人は、自分を望んでいる。
本当に。体ごと。
それがどれだけ嬉しいか、言葉にはできなかった。
◇
セドリックがリゼットを抱き上げ、寝台に降ろした。
月明かりの中、見下ろされる。蒼い瞳が、真剣だった。
「寝巻き、脱がせていい?」
「…………はい」
薄い布がするりと肩を滑り落ちた。
晒された肌に月光が触れる。自分の体を見られているという事実に、反射的に腕で胸元を隠した。
セドリックが、その手をそっと外した。
「隠さないで」
「……でも、その……綺麗じゃ、ないかも……」
「誰がそう言ったのですか」
「誰も……誰も、見たことがないから。わからないんです」
セドリックの瞳に、一瞬の怒りが走った。
三年間、誰にも見てもらえなかった体。
その怒りはすぐに消え、代わりに深い慈しみが浮かんだ。
「綺麗です」
シャツ越しの胸がリゼットの肌に触れた。
「ここも」
鎖骨に唇が落ちた。
「ここも」
首筋を辿る。
「全部」
リゼットの目から、涙が一粒こぼれた。
「……怖くなりましたか?」
「違う。……嬉しいんです。こんなふうに触れてもらえることが。望まれていることが」
セドリックが額をリゼットの額に合わせた。
「望んでいます。あなたを。聖女としてではなく、リゼットとして。ずっと」
もう一度キスをした。涙の味がした。
◇
月が傾いていく。
リゼットはセドリックの腕の中で、まどろみに沈んでいった。
三年間、一人で寝ていた。広い寝台の真ん中で、冷たいシーツに包まれて。
今は温かい。隣に体温がある。
望まれなかった体が、望まれた。
触れてもらえなかった肌が、隅々まで愛された。
空洞が、満たされている。
こんなにも静かで、こんなにも温かい夜が、世界にはあったのだ。
知らなかった。三年間。
でも、もう知った。
「……セドリック」
「……ん」
もう半分眠っている声。
「おやすみなさい」
「……おやすみ。……リゼット」
「はい」
「明日の朝、隣にいてください」
「いますよ。どこにも行きません」
答えると、セドリックの腕がわずかに震えた。そして、リゼットの髪をそっと撫でる。
もしかしたら、同じように、セドリックも怖いのかもしれない、と、ふと思った。
この幸福な夜は幻で、目が覚めたら隣にいないのではないかと。
お互いに、傷を持っている。
でも今夜、二人の傷は少しだけ塞がった。
目を閉じる。
手のひらが、まだほんのり光っていた。
第6.5話 了




