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三年間名ばかりの妻でしたが、離縁届を置いて出ていきます。――え、隣国の皇太子が私を望んでいる? もう遅いですよ、旦那様  作者: 物語創造者≪イマージェン・クリエイター≫
第6.5話 「あなたが望むなら」

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6.5-2

廊下に立つセドリックも、昼間とは違う姿だった。


上着はなく、白いシャツの襟元が少しだけ開いている。金の髪が肩にかかっている。


「……起こしてしまいましたか」


「いいえ。眠れなかったんです」


「何か心配事が?」


「心配事、ではないのですが……」


言葉を探す。うまく見つからない。


「入って、いただけますか」


自分で言って驚いた。


セドリックも驚いていた。蒼い瞳がわずかに見開かれた。


「……いいのですか」


「はい」


声は小さかったが、確かだった。


セドリックが部屋に入る。扉が閉まった。


月明かりだけの部屋に、二人。



窓辺に立つリゼットの背中に、セドリックが声をかけた。


「眠れない理由、聞いてもいいですか」


「……離縁届が、正式に受理されました」


「ええ」


「これで私は、誰のものでもなくなりました」


「……ええ」


「三年間の婚姻が終わって、ほっとしているはずなんです。でも、おかしなことを考えてしまって」


「おかしなこと?」


リゼットは振り返った。


月明かりの中、薄い寝巻きの輪郭が浮かんでいる。自分がどう見えているか、わかっていた。わかっていて、振り返った。


「三年間、私は一度も……夫婦として、扱ってもらえませんでした」


セドリックが息を止めた気配がした。


「初夜も。その後も。一度も。触れてもらったことがないんです」


声が震えた。恥ずかしさではなく、もっと深いところの痛みが滲んだ。


「だから、ずっと……自分の体は望まれないものなのだと思っていました。誰かに触れてもらう価値がないのだと」


「リゼットさん……」


「でも今夜、あなたのことを考えていたら」


月明かりの中で、リゼットの右手がかすかに光った。


「……体が、こんなに何かを求めることがあるのだと。初めて知りました」


沈黙が落ちた。


長い沈黙だった。


セドリックが一歩近づいた。もう一歩。手が届く距離。


「一つ、確認させてください」


低い声だった。昼間の穏やかな声とは違う。もっと深い、もっと熱い。


「あなたが今、私を部屋に入れたのは。私に……触れてほしいから、ですか」


直球だった。


この人はいつも、大切なことを誤魔化さない。


「……はい」


リゼットも、誤魔化さなかった。


セドリックの手が伸びて、リゼットの頬に触れた。


指先だけ。それだけなのに、体の芯に火が灯ったような感覚が走った。


「怖くはありませんか」


「……少し」


「少しでも怖ければ、やめます。いつでも止められる。あなたが嫌だと言えば、どの瞬間でも」


「知っています。あなたがそういう人だと、知っています」


だから怖くない。


怖いのは別のことだ。


「怖いのは……私が、何も知らないことです。三年間、夫婦だったのに。何も」


セドリックの指が、頬から顎の線をたどり、唇のすぐ近くで止まった。


「では、教えます。一つずつ。あなたが望む速さで」


指が唇に触れた。


柔らかく。確かめるように。


リゼットの唇が震えた。


「セドリック、様……」


「……できれば今夜は、様をつけないでほしい」


「……セドリック」


名前を呼んだ瞬間、セドリックの自制が一枚剥がれた気配がした。蒼い瞳の奥に、押さえていた熱が浮かんだ。


「もう一度」


「セドリック」


唇が、重なった。



初めてのキスは、驚くほど優しかった。


触れるだけ。唇の輪郭をなぞるだけ。それだけで、全身が震えた。


「……っ」


「大丈夫?」


「大丈夫、です。ただ……こんなに、震えるものだと思わなくて」


「初めてなら、当然です」


セドリックがリゼットの腰に手を回した。支えるように。包み込むように。


二度目のキスは、少しだけ深かった。唇が開いて、セドリックの舌先がそっと触れた。リゼットの体が跳ねた。


「ん……っ」


その反応に、セドリックが微かに笑った。


「素直ですね」


「もう、自分の気持ちを隠すのはやめたんです」


リゼットが笑った。笑ったら、少しだけ緊張がほどけた。


セドリックはそれを見てから、三度目のキスをした。


今度は深く。リゼットの口内に入り込んで、舌を絡めて、ゆっくりと味わうように。


頭が溶ける。酸素が足りない。でも離れたくない。


自分から舌を動かした。ぎこちなくて、多分下手で。でもセドリックが低く息を吐いた。


「…………リゼット」


名前の呼び方が変わった。もっと低く、もっと切実に。


その声を聞いた時、リゼットは確信した。


この人は、自分を望んでいる。


本当に。体ごと。


それがどれだけ嬉しいか、言葉にはできなかった。



セドリックがリゼットを抱き上げ、寝台に降ろした。


月明かりの中、見下ろされる。蒼い瞳が、真剣だった。


「寝巻き、脱がせていい?」


「…………はい」


薄い布がするりと肩を滑り落ちた。


晒された肌に月光が触れる。自分の体を見られているという事実に、反射的に腕で胸元を隠した。


セドリックが、その手をそっと外した。


「隠さないで」


「……でも、その……綺麗じゃ、ないかも……」


「誰がそう言ったのですか」


「誰も……誰も、見たことがないから。わからないんです」


セドリックの瞳に、一瞬の怒りが走った。


三年間、誰にも見てもらえなかった体。


その怒りはすぐに消え、代わりに深い慈しみが浮かんだ。


「綺麗です」


シャツ越しの胸がリゼットの肌に触れた。


「ここも」


鎖骨に唇が落ちた。


「ここも」


首筋を辿る。


「全部」


リゼットの目から、涙が一粒こぼれた。


「……怖くなりましたか?」


「違う。……嬉しいんです。こんなふうに触れてもらえることが。望まれていることが」


セドリックが額をリゼットの額に合わせた。


「望んでいます。あなたを。聖女としてではなく、リゼットとして。ずっと」


もう一度キスをした。涙の味がした。



月が傾いていく。


リゼットはセドリックの腕の中で、まどろみに沈んでいった。


三年間、一人で寝ていた。広い寝台の真ん中で、冷たいシーツに包まれて。


今は温かい。隣に体温がある。


望まれなかった体が、望まれた。


触れてもらえなかった肌が、隅々まで愛された。


空洞が、満たされている。


こんなにも静かで、こんなにも温かい夜が、世界にはあったのだ。


知らなかった。三年間。


でも、もう知った。


「……セドリック」


「……ん」


もう半分眠っている声。


「おやすみなさい」


「……おやすみ。……リゼット」


「はい」


「明日の朝、隣にいてください」


「いますよ。どこにも行きません」


答えると、セドリックの腕がわずかに震えた。そして、リゼットの髪をそっと撫でる。


もしかしたら、同じように、セドリックも怖いのかもしれない、と、ふと思った。


この幸福な夜は幻で、目が覚めたら隣にいないのではないかと。


お互いに、傷を持っている。


でも今夜、二人の傷は少しだけ塞がった。


目を閉じる。


手のひらが、まだほんのり光っていた。

第6.5話 了

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