6-3
その夜。
リゼットは自室に戻り、寝台に腰かけた。
右手を見る。まだほんのりと光っている。
セドリックの腕の中にいた時、光はいつもより強かった。
感情と連動している。嬉しい時、幸せな時、力は強くなる。
三年間、抑圧されていた力。
あの屋敷では、嬉しいことも幸せなこともなかったから。
「…………」
胸に手を当てる。
心臓がまだ少しだけ速い。
セドリックの匂いが、まだかすかに残っている気がする。
美しいと言われた。大切だと言われた。泣いている自分を見て、この人を泣かせた奴は誰だと思ってくれた。
全部、初めてのことだった。
怖い、と思った。
こんなに満たされることが怖い。いつか奪われるのではないかと。また「無意味だった」と言われるのではないかと。
三年間の傷は、まだここにある。
でも。
「……受け取りたい」
声に出して言った。
「あの人の気持ちを。ちゃんと」
一年かかっても十年かかってもいいと、あの人は言った。
でもリゼットは、そんなに待たせたくなかった。
この人を待たせるのは、もったいない。
だって、あの人の心臓は、あんなに速く打っていたのだから。
◇
翌朝。
ヴェルグリア帝国宮殿、来賓室。
アンドレイは窓から中庭を見下ろしていた。
庭園をリゼットとセドリックが並んで歩いている。リゼットが何か言って、セドリックが笑う。セドリックが何か指差して、リゼットが目を輝かせる。
自然な距離。自然な笑顔。
三年間、自分の隣では一度も見せなかった表情。
「……笑うんだな、あいつ」
呟いてから、気づいた。
笑わなかったのではない。笑えなかったのだ。自分の隣では。
リゼットの手が光っている。花壇の花に手をかざすと、蕾が一斉に開いた。見ていた庭師たちが歓声を上げる。リゼットがはにかむ。セドリックが何か耳元で囁いて、リゼットの頬が染まる。
あの光を。
あの笑顔を。
三年間、自分のすぐ隣にあったはずの全てを、自分は一度も見なかった。
見ようとしなかった。
アンドレイの頭に、リゼットの言葉が蘇った。
あなたが見なかっただけです。
あの日の謁見の間で、静かに、だが確かに突き刺さった言葉。
そして、セドリックの言葉。
あなたは三年かけても気づかなかったことに、私は一目で気づいた。
「……っ」
テーブルの上の離縁届を見る。
まだ署名していない。あと二日で滞在期限が切れる。署名しなければ、ヴェルグリアが正式に動く。そうなれば、自分の国の王家からも圧力がかかる。結果は同じだ。
それでも署名できないのは、プライドか。執着か。
――後悔か。
目を閉じる。
浮かぶのは、三年前の結婚式。
リゼットが緊張した面持ちで隣に立っていた。地味な女だと思った。華やかさのない、退屈な女だと。
隣にフローラがいればよかったのに、と思った。
式の後、リゼットが小さな声で言った言葉を、今になって思い出す。
「至らない妻ですが、どうか末永くよろしくお願いいたします」
あの時、自分は何と返した。
何も返さなかった。
何も返さなかったのだ。三年前から。三年間、ずっと。
「――遅い、か」
遅い。
何もかも。
ペンを取る。今度は手が止まらなかった。
アンドレイ・ヴォルコフ。
署名した。
インクが乾くのを待つ間、もう一度窓の外を見た。
リゼットとセドリックの姿は、もう見えなかった。
第6話 了




