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十日目の夜。
宮殿の図書室で、リゼットは薬草学の文献を読んでいた。
ヴェルグリアの図書室は圧巻だった。天井まで届く書架が何列も並び、隣国では手に入らない貴重な文献が山のようにある。
薬草学。農地管理。聖女の歴史。浄化術の理論。
読みたい本が多すぎて、時間がいくらあっても足りない。
「こんな時間まで」
声がして振り返ると、セドリックが入り口に立っていた。上着を脱いで、シャツの袖をまくっている。公務を終えたばかりの姿。
「セドリック様こそ、遅くまでお仕事を」
「終わらないのですよ、書類が。……隣、いいですか」
「どうぞ」
セドリックが隣の椅子に座った。図書室の灯りはランプだけで、昼間とは違う柔らかい空気が漂っている。
「何を読んでいるんですか」
「ヴェルグリアの薬草図鑑です。この国の薬草は隣国と種類が違って、配合の体系が全く異なるんです。面白くて」
「面白い、と言って薬草図鑑を読む人を、私は初めて見ました」
「変ですか」
「いいえ。好きなことを語る時のあなたは、とても……」
セドリックが言葉を切った。
「……とても?」
「いえ。何でもありません」
何でもなくはないことが、もうわかるようになっていた。
この人は、言いかけて止めることがある。溢れそうになる言葉を、理性で堰き止めている。
皇太子としての礼節なのか。それとも、リゼットの気持ちを急かしたくないのか。
多分、両方だ。
「セドリック様」
「はい」
「今、言いかけたこと。聞いてもいいですか」
沈黙が一拍あった。
ランプの灯りが揺れる。セドリックの横顔に影が落ちた。
「……好きなことを語る時のあなたは、とても美しい。と、言おうとしました」
静かな声だった。
リゼットは手の中の本を見つめた。文字が滲んでいるのは、ランプの灯りのせいだ。きっとそうだ。
「三年間……美しいと言われたことは、一度もありませんでした」
「知っています」
「だから……少し、受け止め方がわからないんです」
「急がなくていい」
セドリックの声が、さらに静かになった。
「受け止めなくてもいい。ただ、私は思ったことを伝えたい。あなたが受け取れる時に、受け取ってくれればいい。一年かかっても、十年かかっても」
十年。
この人は、十年待つと言っている。
出会ってまだ二週間にも満たないのに。
「……気の長い方ですね」
「聖女を探して大陸中を巡っていましたからね。忍耐力はあります」
「それは聖女を探す忍耐力であって、女性を待つ忍耐力とは別では」
「同じです。大切なものを見つけたら、手に入るまで待つ。何年でも」
大切なもの。
その言葉の重さが、ゆっくりと胸に沈んでいく。
「あなたにとって、私は……聖女だから大切なのですか。それとも……」
問いかけてから、怖くなった。答えが怖いのではない。答えを望んでいる自分が怖かった。
セドリックは本棚の方に視線を移した。
それから、静かに、だが迷いなく言った。
「最初に街道であなたを見た時。馬車の窓から、一瞬だけ。あなたが歩いているのが見えた」
「……馬車の中から、見えていたんですか」
「ええ。帷の隙間から。たった一瞬でした。でもその一瞬で、あなたの周りに淡い光が見えた。聖女の光です。だから馬車を止めようとした。でも、供の者に止められた。怪しまれると」
リゼットは――屋敷を出た、あの日の記憶を辿った。街道で、白銀の馬車とすれ違った時。帷の隙間から蒼い瞳が見えた、あの一瞬。
「翌日、あなたが道端で座り込んでいるのを見つけた時。あれは偶然ではありません」
「……え?」
「あなたを探していました。聖女の光を追って。ただ、見つけた時、あなたは泣いていた」
セドリックの声が、わずかに揺れた。
「聖女かどうかは、その時もう、どうでもよくなっていました」
「…………」
「泣いている人がいた。一人で、道端で、声を殺して。あの時私が思ったのは、聖女を見つけたということではなく――この人を泣かせた奴は誰だ、ということでした」
ランプの炎が揺れた。
二人の間の沈黙は、重くはなかった。むしろ温かかった。
「……聞いてよかったです」
リゼットは小さく言った。
「あなたが聖女を求めてではなく、泣いている私を見て手を伸ばしてくれたのだと知れて。それが……一番、嬉しい」
セドリックが息を吸った。吐いた。もう一度吸った。
何かを堪えているようだった。
「リゼットさん」
「はい」
「今、とても抱きしめたいのですが」
「…………」
「許可をいただかない限り、しませんが」
律儀だった。こんな時でも。
リゼットは本を閉じて、膝の上に置いた。
心臓がうるさい。顔が熱い。手のひらが淡く光っている。感情と連動して、勝手に。
「……許可、します」
小さな声だった。
セドリックの腕が伸びて、リゼットを包んだ。
廊下の時とは違う。あの時は緊急だった。今は、選んで、ここにいる。
「……温かい」
「あなたもです」
セドリックの心臓が、耳のすぐ近くで鳴っていた。速い。
「セドリック様」
「はい」
「心臓、すごく速いですね」
「……気づかないふりをしてほしかった」
セドリックが笑った。胸に響く、低い笑い声。
リゼットも笑った。
図書室の静けさの中で、二人だけが笑っていた。




