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三年間名ばかりの妻でしたが、離縁届を置いて出ていきます。――え、隣国の皇太子が私を望んでいる? もう遅いですよ、旦那様  作者: 物語創造者≪イマージェン・クリエイター≫
第6話 「あなたの気持ちを、受け取りたい」

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6-2

十日目の夜。


宮殿の図書室で、リゼットは薬草学の文献を読んでいた。


ヴェルグリアの図書室は圧巻だった。天井まで届く書架が何列も並び、隣国では手に入らない貴重な文献が山のようにある。


薬草学。農地管理。聖女の歴史。浄化術の理論。


読みたい本が多すぎて、時間がいくらあっても足りない。


「こんな時間まで」


声がして振り返ると、セドリックが入り口に立っていた。上着を脱いで、シャツの袖をまくっている。公務を終えたばかりの姿。


「セドリック様こそ、遅くまでお仕事を」


「終わらないのですよ、書類が。……隣、いいですか」


「どうぞ」


セドリックが隣の椅子に座った。図書室の灯りはランプだけで、昼間とは違う柔らかい空気が漂っている。


「何を読んでいるんですか」


「ヴェルグリアの薬草図鑑です。この国の薬草は隣国と種類が違って、配合の体系が全く異なるんです。面白くて」


「面白い、と言って薬草図鑑を読む人を、私は初めて見ました」


「変ですか」


「いいえ。好きなことを語る時のあなたは、とても……」


セドリックが言葉を切った。


「……とても?」


「いえ。何でもありません」


何でもなくはないことが、もうわかるようになっていた。


この人は、言いかけて止めることがある。溢れそうになる言葉を、理性で堰き止めている。


皇太子としての礼節なのか。それとも、リゼットの気持ちを急かしたくないのか。


多分、両方だ。


「セドリック様」


「はい」


「今、言いかけたこと。聞いてもいいですか」


沈黙が一拍あった。


ランプの灯りが揺れる。セドリックの横顔に影が落ちた。


「……好きなことを語る時のあなたは、とても美しい。と、言おうとしました」


静かな声だった。


リゼットは手の中の本を見つめた。文字が滲んでいるのは、ランプの灯りのせいだ。きっとそうだ。


「三年間……美しいと言われたことは、一度もありませんでした」


「知っています」


「だから……少し、受け止め方がわからないんです」


「急がなくていい」


セドリックの声が、さらに静かになった。


「受け止めなくてもいい。ただ、私は思ったことを伝えたい。あなたが受け取れる時に、受け取ってくれればいい。一年かかっても、十年かかっても」


十年。


この人は、十年待つと言っている。


出会ってまだ二週間にも満たないのに。


「……気の長い方ですね」


「聖女を探して大陸中を巡っていましたからね。忍耐力はあります」


「それは聖女を探す忍耐力であって、女性を待つ忍耐力とは別では」


「同じです。大切なものを見つけたら、手に入るまで待つ。何年でも」


大切なもの。


その言葉の重さが、ゆっくりと胸に沈んでいく。


「あなたにとって、私は……聖女だから大切なのですか。それとも……」


問いかけてから、怖くなった。答えが怖いのではない。答えを望んでいる自分が怖かった。


セドリックは本棚の方に視線を移した。


それから、静かに、だが迷いなく言った。


「最初に街道であなたを見た時。馬車の窓から、一瞬だけ。あなたが歩いているのが見えた」


「……馬車の中から、見えていたんですか」


「ええ。帷の隙間から。たった一瞬でした。でもその一瞬で、あなたの周りに淡い光が見えた。聖女の光です。だから馬車を止めようとした。でも、供の者に止められた。怪しまれると」


リゼットは――屋敷を出た、あの日の記憶を辿った。街道で、白銀の馬車とすれ違った時。帷の隙間から蒼い瞳が見えた、あの一瞬。


「翌日、あなたが道端で座り込んでいるのを見つけた時。あれは偶然ではありません」


「……え?」


「あなたを探していました。聖女の光を追って。ただ、見つけた時、あなたは泣いていた」


セドリックの声が、わずかに揺れた。


「聖女かどうかは、その時もう、どうでもよくなっていました」


「…………」


「泣いている人がいた。一人で、道端で、声を殺して。あの時私が思ったのは、聖女を見つけたということではなく――この人を泣かせた奴は誰だ、ということでした」


ランプの炎が揺れた。


二人の間の沈黙は、重くはなかった。むしろ温かかった。


「……聞いてよかったです」


リゼットは小さく言った。


「あなたが聖女を求めてではなく、泣いている私を見て手を伸ばしてくれたのだと知れて。それが……一番、嬉しい」


セドリックが息を吸った。吐いた。もう一度吸った。


何かを堪えているようだった。


「リゼットさん」


「はい」


「今、とても抱きしめたいのですが」


「…………」


「許可をいただかない限り、しませんが」


律儀だった。こんな時でも。


リゼットは本を閉じて、膝の上に置いた。


心臓がうるさい。顔が熱い。手のひらが淡く光っている。感情と連動して、勝手に。


「……許可、します」


小さな声だった。


セドリックの腕が伸びて、リゼットを包んだ。


廊下の時とは違う。あの時は緊急だった。今は、選んで、ここにいる。


「……温かい」


「あなたもです」


セドリックの心臓が、耳のすぐ近くで鳴っていた。速い。


「セドリック様」


「はい」


「心臓、すごく速いですね」


「……気づかないふりをしてほしかった」


セドリックが笑った。胸に響く、低い笑い声。


リゼットも笑った。


図書室の静けさの中で、二人だけが笑っていた。

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