5-3
三日後。
ヴェルグリア帝国、宮殿の謁見の間。
大理石の広間に、リゼットは立っていた。
淡い藤色のドレス。セドリックが贈ってくれたもの。控えめだが上質な髪飾り。背筋を伸ばし、手は体の横に下ろしている。
その半歩後ろに、セドリックが立っていた。
あえて前ではなく、後ろ。リゼットが自分の足で立っていることを示すために。だが何かあれば即座に前に出られる距離。
扉が開いた。
銀の髪。冷たい灰色の瞳。
アンドレイ・ヴォルコフが、広間に入ってきた。
三年間毎日見ていた顔。かつての夫。今は、他人。
だがリゼットが最初に気づいたのは、アンドレイの顔色の悪さだった。目の下に隈がある。頬がやや痩けている。外套の仕立ては相変わらず良いが、全体に覇気がない。
……あの屋敷は、よほど大変なことになっているのだろう。
同情はしなかった。できなかった。
「久しぶりだな、リゼット」
アンドレイの第一声は、それだった。
「ヴォルコフ公爵。――いいえ、リゼットとお呼びになる間柄ではもうないかと思いますが」
リゼットの声は、自分でも驚くほど平坦だった。
アンドレイの目がわずかに見開かれた。
あの、いつも俯いて「はい」としか言わなかった女が、自分の目を見て、敬語で、距離を置いている。
「……その、離縁届の件だが」
「署名がまだでしたか。ここにお持ちいただければ、目の前で署名していただけますが」
「いや……そうではなく」
アンドレイが言い淀んだ。
初めて見た。あの傲慢な男が、言葉を選んでいる姿。
「聖女候補という話は本当なのか」
「ヴェルグリア帝国の神官団が正式に認定しました。歴代最高の素質だそうです」
「歴代最高……」
アンドレイの顔が歪んだ。
「三年間、俺の隣にいて、なぜ一度も言わなかった」
リゼットは一瞬、自分の耳を疑った。
なぜ言わなかった?
「……言う機会がなかったからです」
「機会がなかった?」
「ええ。だって、あなたは三年間、一度も私に聖女かどうかを訊ねなかった。私の手が光ることに気づかなかった。私が領民の子供の熱を下げていたことも、薬草園の品種改良を成功させていたことも、あなたの領地の税収を倍にしていたことも。何一つ、見なかった」
言葉が溢れた。
怒りではない。ただの事実の羅列。
だがその一つ一つが、アンドレイの顔から血の気を奪っていった。
「それは……」
「お前がいなくなっても何も変わらない、とおっしゃいましたね」
アンドレイが息を呑んだ。
自分が言った言葉を、そのまま返された。
「変わりましたか?」
「…………」
「変わったでしょう。あなたの屋敷は今、どうなっていますか。帳簿は誰が見ていますか。領民の陳情は誰が捌いていますか。薬草園は枯れていませんか」
一つ一つ、正確に突き刺していく。
声は震えていない。冷たくもない。ただ、静かだった。
湖の底のように。
アンドレイは答えられなかった。全てが図星だったからだ。
「リゼット、俺は――」
「お話は以上でしょうか。聖女候補としての訓練がありますので、失礼いたします」
「待て」
アンドレイが一歩前に出た。
「戻ってこい、リゼット」
その一言で、空気が変わった。
「離縁届にはまだ署名していない。お前はまだ俺の妻だ。この国に留まる法的根拠はない」
命令の口調。三年間ずっとそうだったように。
リゼットの体が、反射的にわずかに強張った。
染みついた反応。三年分の条件づけ。頭では分かっている。もう従う必要はないと。でも体が覚えている。
その瞬間。
背後から、手が伸びてきた。
リゼットの肩にそっと置かれた手。温かく、だが確かな重み。
「――その方に用があるなら、まず私を通していただこう」
セドリックが、半歩前に出た。
穏やかな声だった。微笑みすら浮かべていた。だが蒼い瞳の奥は、凍っていた。
「ヴォルコフ公爵。あなたは外交使節としてこの国に入国を許可された。聖女候補に関する協議が目的のはずだ」
「……ああ、そうだが」
「ならば、協議しましょう。ただし、リゼットさんに対して命令口調を使うのは、協議とは言いません」
セドリックの声は穏やかなまま、だが一段低くなった。
「彼女はあなたの妻ではない。離縁届が未署名であることは、あなたが署名を怠っているだけの話だ。彼女の側の意思は明確に示されている」
「……皇太子殿下がなぜ、彼女の離縁問題にそこまで口を出すのか。聖女候補としての関心だけでは説明がつかないが」
アンドレイの目が据わった。
セドリックはその視線を正面から受けた。
「では正直に申し上げましょう」
一拍。
「聖女候補としてだけではなく、一人の人間として、私はこの方を大切に思っています。あなたが三年かけて傷つけたものを、これ以上壊させるつもりはない」
謁見の間が、完全に静まり返った。
侍従も、護衛も、神官も、呼吸すら忘れたように動かない。
アンドレイの顔が紅潮した。屈辱と、怒りと、それ以外の何かで。
「……たかが数日の関係で、よくそこまで言えるものだ」
「数日で十分でした。あなたは三年かけても気づかなかったことに、私は一目で気づいた。それだけの話です」
致命傷だった。
リゼットにはわかった。今の一言が、アンドレイの最も深いところを抉ったことが。
プライド。能力。見る目。
その全てを否定する一言。
アンドレイの拳が白くなるほど握り締められた。だが、ここはヴェルグリアの宮殿だ。皇太子の前で暴力を振るえば、それは宣戦布告に等しい。
「……リゼット」
アンドレイが絞り出すように言った。
「お前は、これでいいのか。この男の庇護に入って、聖女だの何だのと祭り上げられて。お前はそういう人間ではないだろう」
「私がどういう人間か、あなたに言われたくはありません」
リゼットの声は、もう震えていなかった。
肩に置かれたセドリックの手を、意識していた。温かかった。
「三年間、あなたの隣で、私は私がどういう人間かを忘れかけていました。取り柄がない、価値がない、いてもいなくても同じ。そう思い込んでいました」
一拍。
「でもそれは嘘でした。あなたが見なかっただけです」
アンドレイが、初めて目を逸らした。
それが答えだった。
反論できない。正当化もできない。ただ事実を突きつけられて、目を逸らすことしかできない。
「離縁届の署名は、本日中に外交窓口へご提出ください。それ以上お話しすることはありません」
リゼットは頭を下げ、踵を返した。
セドリックがその背に手を添え、共に歩き出す。
広間を出る直前、リゼットの手がわずかに震えた。
――辛くなったら、私の手を握ってください。
その言葉を思い出す。
でも、握らなかった。
自分の足で歩けた。自分の声で言えた。
それが、嬉しかった。
広間の扉が閉まる。
残されたアンドレイの前で、ヴェルグリアの侍従が事務的に告げた。
「署名用の書類はこちらにご用意してございます。インクとペンもお持ちしましょうか」
◇
廊下に出た瞬間、リゼットの膝から力が抜けた。
「――っ」
崩れ落ちそうになった体を、セドリックが支えた。
「リゼットさん」
「大丈夫、です。大丈夫……ただ、少しだけ……」
「少しだけ、何ですか」
「少しだけ、このままでいさせてください」
セドリックの腕の中で、目を閉じた。
泣いてはいない。ただ、三年分の緊張が一気にほどけて、体が自分のものではないようだった。
「よく頑張りました」
頭の上から、静かな声が降ってきた。
「あなたは立派だった。一人で立って、一人で言葉にして、一人で歩いた」
「……一人では、ありませんでした」
「え?」
「あなたが後ろにいてくれたから。……手は握らなかったけれど、あなたがいることは、ずっとわかっていました」
セドリックの腕が、わずかに強くなった。
「……ずるいですね、あなたは」
「何がですか」
「そういうことを言われると、もう離したくなくなる」
リゼットは顔を上げなかった。
顔を上げたら、きっと泣いてしまう。嬉しくて。
だから目を閉じたまま、セドリックの心臓の音を聞いていた。
速かった。
穏やかに見えるこの人の心臓も、今はこんなに速く打っている。
それを知れたことが、何よりも嬉しかった。
◇
その夜。
ヴェルグリア帝国、宮殿の来賓室。
アンドレイは机の上の離縁届を見つめていた。
ペンは手の中にある。
署名すればいい。それだけの話だ。
自分が望んだことだ。無意味な婚姻を終わらせたかったのは自分だ。リゼットがいなくなっても何も変わらないと言ったのは自分だ。
なのに。
手が、動かない。
脳裏に浮かぶのは、あの藤色のドレスを纏ったリゼットの姿。
三年間、一度も見たことのない顔をしていた。
背筋が伸びていた。声に芯があった。瞳に光があった。
あんな顔をする女だったのか。
あんな声で話す女だったのか。
隣に立っていたのは、あの皇太子だ。リゼットの肩に手を置いて、当然のように守って、当然のように「大切に思っている」と言い切った男。
数日で十分でした。あなたは三年かけても気づかなかったことに、私は一目で気づいた。
あの言葉が、頭から離れない。
「…………」
ペンを置いた。
署名はしなかった。
◇
「殿下。ヴォルコフ公爵は、署名せずに来賓室にお戻りになったそうです」
侍従の報告を聞いたセドリックは、窓辺で足を止めた。
「……そうですか」
予想はしていた。
あの男の目を見ればわかる。あれは外交のために来たのではない。
失ったものの大きさにようやく気づいて、手放せなくなっている目だ。
だが、もう遅い。
遅いのだ。
セドリックは庭園を見下ろした。
月明かりの下、リゼットの部屋の窓に灯りが見えた。まだ起きているのだろう。
「……明日は、焼き菓子を多めに用意させよう」
静かに呟いて、セドリックは自室に戻った。
第5話 了




