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五日後。
ヴォルコフ公爵邸。
アンドレイは、壊れかけた屋敷の中で、ある決断を下した。
「馬車を用意しろ」
「旦那様、どちらへ?」
「セレブリャコフ辺境伯領だ」
執事のイヴァンが目を見開いた。
「リゼットを……元奥方を、お連れ戻しに?」
「連れ戻すのではない。話をしに行くだけだ」
嘘だった。
この五日間で、屋敷は完全に機能不全に陥っていた。
税収の計算が合わない。領民からの陳情が三十件を超えた。薬草園の希少品種は半分が枯れた。厨房は毎食が賭けのような状態で、昨日はフローラが指示した献立で客人に痛んで腐りかけの食材を出しそうになり、あわや外交問題になるところだった。
そして何より――。
離縁届に、まだ署名していない。
していない、のではない。できなかったのだ。
ペンを持つたびに手が止まる。理由は自分でもわからない。
わからない、と思いたかった。
「フローラには何と?」
「留守の間、屋敷を任せると言っておけ」
「……かしこまりました」
イヴァンは内心で思った。フローラ様に屋敷を任せたら、旦那様が戻る頃には屋敷ごとなくなっているかもしれない、と。
だが、それを口にするほどイヴァンは愚かではなかった。
アンドレイは外套を掴み、玄関に向かった。
話をしに行くだけだ。
ただ、確認したいだけだ。
聖女だという噂が本当なのか。ヴェルグリアの皇太子が何を企んでいるのか。
リゼットのことが気になっているわけではない。
断じて、ない。
◇
馬車が辺境伯領に着いたのは翌日の昼だった。
門を叩くと、使用人が出てきた。
「ヴォルコフ公爵様。……お久しぶりでございます」
「リゼットに会いたい。取り次いでくれ」
使用人が気まずそうに目を伏せた。
「それが……リゼットお嬢様は、五日前にこちらを発たれました」
「……発った? どこへ」
「ヴェルグリア帝国へ。皇太子殿下と共に」
沈黙。
「皇太子と……共に?」
「はい。聖女候補として正式にお招きを受けまして。それはもう立派な馬車で、皇太子殿下じきじきにお嬢様の手を取って――」
「もういい」
アンドレイは使用人の言葉を遮った。
手を取って。
皇太子が、リゼットの手を取って。
あの、地味な、帳簿と薬草しか能のない――
「……旦那様? お顔の色が優れないようですが」
「何でもない」
何でもなくはなかった。
胸の奥で、名前のつけられない感情が渦を巻いている。
怒りなのか。焦りなのか。それとも。
「もう遅い、ということか……」
呟きは、秋の風にかき消された。
第4話 了




