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三年間名ばかりの妻でしたが、離縁届を置いて出ていきます。――え、隣国の皇太子が私を望んでいる? もう遅いですよ、旦那様  作者: 物語創造者≪イマージェン・クリエイター≫
第4話 「私は、あなたに何もしてあげられていない」

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4-2

三日目の夕方。


出発前夜。


リゼットは客間で荷造りをしていた。相変わらず荷物は少ない。旅行鞄一つ。それが自分の持ち物の全て。


扉がノックされた。


「リゼットさん、少しよろしいですか」


セドリックの声。


扉を開けると、セドリックの後ろに侍女が二人、大きな箱を抱えて立っていた。


「明日からの旅と、ヴェルグリアでの生活に必要なものを用意させました」


箱が開けられる。


中には、仕立ての良いドレスが数着。旅装用の外套。柔らかい革の靴。そして小さな木箱には、控えめだが上質な装飾品。


「セドリック様、これは……」


「聖女候補としてヴェルグリアに入国する以上、それに相応しい装いが必要です。公的な理由ですよ」


公的な理由。


だが、ドレスの色はすべてリゼットの栗色の髪に映える淡い色調で統一されていた。靴のサイズは正確だった。装飾品は華美ではなく、リゼットの雰囲気に合う繊細なものばかり。


「これが……公的な理由だけで選ばれたものには見えないのですが」


リゼットが静かに言うと、セドリックは一瞬だけ動きを止めた。


「……鋭いですね」


「三年間、商人みたいに帳簿とにらめっこしてきましたから。計算が合わない時にはすぐ気づきます」


セドリックが笑った。声を出して、楽しそうに。


「敵わないな」


それから、少し真面目な顔に戻って言った。


「正直に言えば、私的な理由もあります。あなたに似合うものを選びたかった。……それは、許していただけますか」


許すも何も。


三年間、夫からは誕生日すら祝われなかった。贈り物など一度もなかった。新しいドレスはすべてヴォルコフ家の経費から自分で手配し、それすら最低限に抑えていた。


誰かが自分のために何かを選んでくれる。


それだけのことが、こんなにも心を揺らすのだと、知らなかった。


「……ありがとうございます。大切に、します」


声が小さくなった。泣きそうだったから。


セドリックはそれ以上何も言わず、静かに微笑んで部屋を出ていった。


扉が閉まった後、リゼットはドレスの一着を手に取った。


淡い藤色。柔らかい絹。


そっと胸に当てて、鏡を見る。


――綺麗だと、思った。


ドレスではなく、それを着ている自分が。


三年間、一度も思えなかったことだった。



出発の朝。


白銀の馬車が辺境伯邸の前に停まっている。


父は見送りに出てきた。この三日間ですっかり態度を改め、娘を「大切な跡取り」のように扱い始めている。


「リゼット、体に気をつけてな。何かあればすぐに知らせるんだぞ」


「……ええ、お父様」


三年前、公爵家に嫁ぐ時には「恥をかくな」の一言だけだった。


弟のニコラは少し離れたところに立っていた。目を合わせようとしない。先日リゼットに言い返されたことが、まだ刺さっているらしい。


リゼットは弟に近づき、小さな包みを渡した。


「これ、あなたが好きだった薬草茶の調合。風邪を引きやすい体質は変わっていないでしょう」


「……姉さん」


「怒ってないわよ。ただ、今度は本心で話してね」


弟が唇を噛んだ。


厳しくはするが、突き放しはしない。それがリゼットだった。


馬車に乗り込む。セドリックが手を差し伸べ、リゼットはその手を取った。


三度目。


最初は道端で。次は辺境伯邸の玄関で。そして今日。


そのたびに、ためらいが少しずつ減っている自分がいる。


馬車が動き出す。


窓の外に、生まれ育った辺境の景色が流れていく。


「緊張していますか」


セドリックが向かいの席から訊いた。


「……少し」


「大丈夫です。ヴェルグリアは良い国ですよ。食べ物も美味しい。特に、焼き菓子は世界一だと自負しています」


「焼き菓子」


「ええ。リゼットさんは甘いものはお好きですか」


「……好き、です。でもここ三年ほど、あまり食べる機会がなくて」


公爵夫人だったのに、甘味を口にする機会がなかった。その意味をセドリックが理解していないはずがない。


蒼い瞳がわずかに翳った。怒りではない。もっと静かな、深い感情。


「では、着いたらまず焼き菓子ですね。宮殿の菓子職人は腕がいい。好きなだけ食べてください」


「好きなだけ、というのは」


「文字通りです。遠慮は要りません。あなたはもう、遠慮しなくていい」


遠慮しなくていい。


その言葉がどれほどの解放をもたらすか、言った本人にはわからないだろう。


三年間、すべてを遠慮してきた。食事も、居場所も、感情も。


自分の存在そのものを、遠慮していた。


「……セドリック様」


「はい」


「私は、あなたに何もしてあげられていません。助けていただいて、守っていただいて、こうして導いていただいて。なのに、お返しが何もできていない」


「お返しなど要りません」


「でも――」


「リゼットさん」


セドリックが少し身を乗り出した。


「あなたが笑ってくれること。それが私にとっては十分すぎるお返しです」


「…………」


「先ほど、お父上とお話しされていた時、少し笑っていたでしょう。あれを見た時、ああ、良かったと思いました。それだけで、ここまで来た甲斐があった」


何も言えなかった。


この人は、どうしてこんなことを平然と言えるのだろう。


顔が熱い。耳まで赤くなっているのが自分でもわかる。


セドリックは満足そうに微笑んで、窓の外に目を向けた。


「ヴェルグリアまで七日ほどの旅になります。道中、退屈させませんよ」


退屈なんてするはずがない。


この人の隣にいて、退屈になることなど、きっと一瞬たりともない。


リゼットは窓の外を見た。


知らない道。知らない景色。


でも隣に、あの蒼い瞳がある。


怖くない、と思った。初めて。

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