新月の夜
◇
エルザは、未だに目と口が開けっ放しになっている。
カイはその顔を見て、ほっと息をついた。
「ったく……家を出て行ったって聞いて、びっくりしたぜ」
いつも当たり前にある小麦畑が、急に姿を消してしまったようなそんな感覚だった。カイは、カウンターにドンっと風呂敷を置く。
「今朝早くおばさんがうちに来てさ、これをエルザへ渡しに行ってくれってさ」
おばさんという言葉で、エルザの表情がみるみるうちに曇っていく。アスタート母娘は、顔から全部感情が洩れる。
だいたいのことは想像できた。
モニカが現れた時の表情は、今のエルザとまったく同じ顔だった。
そして、言葉少なにエルザの荷物を託された。その時、エルザが家を出た理由を聞いたが、ただ「エルザのことを頼んだわ」としか言われなかった。
意味深に捉えられるような言い方だったから、一瞬だけ動揺してしまったとは、口が裂けても言えないが。
「どんな大ゲンカしたんだよ?」
その問いは、エルザの一番触れられたくない部分なのだろう。さらに不機嫌にムスッとした表情になっていく。エルザは、立ち上がってドアを押した。
「ちょっと、外に出よう」
「店番、頼まれてるんだろ? ここを離れていいのかよ?」
「さっき呼び込みしてみたけれど、見向きもされなかったもの。この騒ぎだし、しばらくはお客さん来ないよ」
エルザが外を指さす。
さきほどよりも、さらに人の数が倍増していた。大聖堂の方へと、真っ黒い波が押し寄せている。
二人は、その波を逆らうように、大聖堂とは反対方向へ向かった。海沿いの遊歩道を歩いた。
人にぶつかりながら、苦労しながら十分ほど歩き続けると、人の大群を抜ける。
誰もいなくなった長く続く遊歩道。その途中で、小さな広場を見つけ、そこに腰を下ろす。
太陽が出ているときは、青々とした海を眺められて、さぞ景色がいいのだろう。
しかし、今はすでに海の向こう側に沈んでしまって、地平線の奥の空がうっすら明るい程度だ。浜辺と海の境目は、闇にのまれていてわからない。
振り返れば、大聖堂のいたるところに松明が掲げられている。暗闇の中で、夜空に見え始めた星を隠してしまうほど、異様なほどキラキラと輝いている。そこから人々の歌声が風に乗って、耳に届いた。
「今日は、大天使祭ってやつなんだって」
エルザがポツリと呟いた。
「らしいな。俺もここに来る途中で聞いたよ」
大天使とやらへの感謝、敬意を表す歌という説明も受けた。
「この国って、噂には聞いていたけど、本当に神様だか大天使って人に熱心なんだね」
エルザは暗い海の先へ顔を向けていく。カイも視線を追った。
「俺たちは、誰の介入もない手つかずの場所で生まれ育っているからな。だからこそ、この雰囲気が異様に感じるのは、まぁ仕方のない話だ。価値観や思想は、人それぞれ。こういうのもあるんだなって、軽く見ておけばいいさ」
「そう、だよね」
エルザは曖昧に頷く。カイには、今エルザが考えていることは手に取るようにわかった。
きらびやかな大聖堂や洗練された街並みは、そういう考え方もあると意見を述べることすら、許されないような空気がある。今聞こえてくる歌声さえも、まるで監視されているような気分になる。
村は自然に覆い尽くされ、不自由に感じたことも多々あったが、人の思考はどこまでも自由だった。それこそがどれほど貴重なものなのかと、ここに来るとより思い知らされる。
「カイはさ、私の力を初めて知ったとき……どう思った?」
エルザの長いまつ毛が、カイへ向く。
カイは、目の下にできた濃い影を見つめた。
「エルザの力を見たのは、ずいぶん前で、あんまり覚えてないけど」
前置きをして、埋もれていた記憶を掘り起こす。
「驚いたというよりも、ほっとしたっていう感想の方が強かった」
「ほっとした?」
目を丸くしたエルザの瞳に、大聖堂から放たれている光に反射した。
「モニカおばさんとエルザが俺に何か隠していることは子供ながらに、薄々気付いていた。そんな時いつも、思っていたんだ。なんで俺に隠しごとなんかするんだろう。一緒に育ってきて、家族みたいなものなのにってさ」
カイは、子供の頃からずっと変わらない青い瞳を真っ直ぐ見つめる。
「喉の奥に大きな異物が詰まっているような感じがしていたんだ。でも、傷を治してくれて、その正体が何なのかわかって、喉の奥にあった異物がぽろっととれた気がしたんだ。そこから、ふっと溢れてきたのは……『なんだ、大した話じゃなかった』かな」
カイの胸の奥から、ふっと笑みが零れた。
エルザは少し驚いたような顔をして、手を握りしめている。
「ごめん。能天気にほっとした、だなんて」
聖女様を、お前は見たのか?
村から来たと言えば必ず街の人々から、尋ねられた。この世界では、そのくらいエルザの力は、偉大なものとして扱われている。エルザは当然、疲弊しているだろう。後悔しかけた時、エルザの顔に花が咲いた。
「そんなことない。嬉しいよ。ありがとうね」
エルザはいつも憎まれ口ばかりで、素直に礼を言ってこないから、慣れていない。首の後ろあたりが、むず痒かった。
「……私、ずっと思っていたの。この力があるんだったら、隠さず大いに役立てればいいのにって。お母さんから、この力は誇りに思っていいとも言われてたしさ。そうやって堂々としていたら、困っている人の助けに少しくらいはなれるでしょ? その考えは、今も変わっていないの。だから、私は大木祭で力を使ったことは、微塵も後悔してない」
長い年月積み重ねてきた葛藤は、それだけで十分伝わってくる。
エルザは、昔から怪我をしている動物を家に連れ込んでは、モニカの目を盗んで治していたが、村人が怪我したときは、そうもいかない。苦しんでいる人間を治すことができず、悔しそうな顔をしているのを何度も見てきている。
「……だからと言って、聖女だなんて、冗談じゃないけどさ」
人はエルザが治してきた動物たちとは、違う。エルザが付け足した言葉は、何よりも重く響いていく。
広場で倒れた大木が頭の中で浮かんだ。
「実はさ、俺が村を出るとき、村の人たちが広場に集まっていて話しているのを聞いたんだけど。……大木に、切れ込みが入っていたらしい」
海へ視線を伸ばしていたエルザの瞳が、勢いよく戻った。
「アランがやったの?」
「わからない。アランの奴、何も喋らないみたいで本当のところは分からないけど」
アランは叫びながら、わざと木を揺らしていた。切れ込みを入れた本人だからこそ、そうしたと考える方が自然だろう。
「……お前のこと『聖女』とか呼んでいたしさ。気になって村長に聞いてみたんだ。そしたら、みんなが騒いでいる『聖女』とかいう力を持った人が、昔村に存在していた事実が村長の家の書物に載ってたと、教えてくれたんだ」
「村に? 本当?」
カイは頷く。
「約三百年も前の話みたいなんだけど」
カイは、村長から見せられた文献の内容をかいつまむ。
「当時、世界は戦乱の最中で、血の匂いが濃く漂っていた。そんな時代に、一人の女がやってきた。追手に追われているらしい女は、酷く弱っていた。村は苦しんでいるその人を助けた。そして、村人は、その人が不思議な力を持っていたことを知った。時を同じくして世界から争いが消えたことから、村人はその人を『聖女』と呼んだ」
「……聖女」
エルザが、その言葉を繰り返す。カイは、そこまで言って口を閉じた。この先の話は、エルザにとって酷な話になる。だが、すぐにエルザの鋭い目線とかち合った。
「隠さず、全部話して」
エルザに逃げ道を塞がれ、仕方なくその先を続けた。
「そんな彼女は、村で平和に暮らしていた。しかし、ある日突然黒い霧が村を覆った。霧は村を練り歩くようにして漂い、村人を次々と襲った。そして、聖女と共に姿を消した」
カイは、読んだ内容を全部話し終える。
どうせ子供に言うことを聞かせるための御伽噺だと、笑おうとしたら腕を掴まれた。
真剣すぎる表情に気圧される。
「カイは、今日お母さんから、なんて言われてここへやってきたの?」
突然の話の方向転換に、カイは目を瞬かせるしかなかった。しかし、エルザはとても重要な質問だといわんばかりだ。
「エルザを、頼む……とだけ」
先ほどの動揺を見透かされないように、ぼそりと答えた。途端、エルザの青い瞳が、見る見るうちに大きくなる。
風に乗ってくる歌が、反響して不気味に聞こえてくる。
「行かなきゃ」
エルザは勢いよく立ち上がり、そのまま走り出そうとする。カイは、慌ててエルザの手を掴んだ。
「行くって、どこに?」
「村よ」
エルザは、鋭く叫ぶ。
「さっきの話を気にしてるのか? あれは、嘘か本当かもわからない昔話なんだぜ? 真に受けるなよ」
「オバケが出るって話、お母さんもずっと話していたのよ。村に残されていた記録と、辻褄が合う」
「おばさんもその文献読んだから、そう言っただけだろ?」
「お母さんは、アスタート家に代々伝わっている話だって言ってたわ。それ以上に……私を村から追いだした。それが、答えだよ!」
エルザの顔は蒼白だった。
「百歩譲ってその変な霧が現れたとしても、それが今夜とは限らないだろ。そんなに不安なら、明日帰ればいい」
「ダメだよ! 今じゃなきゃ!」
「どうして?」
「オバケは、新月の夜に現れるのよ!」
エルザの悲鳴のような声の道筋をたどって、カイは空を仰いだ。エルザの言う通り、月はどこにもない。
カイが、唾を飲み込む。
大聖堂から届いてくる歌は、美しいバラードだったはずだったが、今は海の波音と混ざり合い、不気味な和音を奏でていた。
それは暗い空にどこまでも広がって、二人を丸ごと飲み込んでいた。
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