衝突
太陽が傾き始め、空はオレンジと青のグラデーションを作り始める。その空が、美しかった。ずっと残っていた疲労感が、吸い込まれて消えていく。
今回のことは、モニカの耳にも届いているだろう。
これでモニカの考え方の方が間違っていたと、証明できる。
『ご先祖様は、悪い力を体内に取り込んで浄化し、長い時間をかけて癒しの力に変えてきた。だから、今エルザが持っている力は誇るべきものよ』
小さい頃モニカがくれた言葉が、エルザの心を晴れやかにさせた。
その勢いのままに、家のドアを押した。
「ただいま」
家は薄暗かった。その割にエルザの声だけが、不釣り合いに明るく響いた。
ずっと明るいところにいたから、暗い場所がよく見えない。目を凝らすと、すぐ目の前にモニカが立っていて、エルザの心臓が嫌な音を立てた。
「一体、何を考えているの」
鋭くとがった声が、風船のように空高くに浮かんでいた気持ちに突き刺さった。
エルザは、その衝撃に目を見開くことしかできない。
「あれだけ言っていたのに、どうして約束を破ったの?」
モニカが更に付け加えた言葉は、エルザの鼓膜を塞いでいく。もう自分の鼓動しか聞こえなかった。
「何なのよ、一体」
心の中心まで冷えて、この目で見てきた現実だけがはっきりと見えた。
血に染まった広場。
倒れた大木。
人々の悲鳴。
「じゃあ、全部、見捨てればよかったってこと? 私の力を隠すためなら、みんな死んで構わなかったってこと?」
この手には、助けられる力がある。昔モニカがよく言ってくれた誇るべき力が。
「みんなには、家族がいた。死んでほしくないって……心の底から、願っていた」
あの時のカイの真っ白な顔は、死にゆく父の顔そのものだった。
下唇を噛むと、鉄の味が口の中で広がる。
あまりの不味さに、凍り付いていた感覚が一気に目覚めた。
「私……そんなに、悪いことをした?」
涙が頬を伝っていく。
みんなからはあんなにも拍手をもらえたのに、一番褒めてほしかった母からは、咎める言葉しか出てこない。
家に帰る前の気分との落差が激しすぎて、胸が絞られるように痛かった。
「あそこで使わなかったら、いつこの力を使えばいいのよ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。モニカは拳を握り、固く閉じていく。
「一生、使わなければよかった……そういうことよ」
モニカの声は、有無を言わさない芯があった。
エルザは、モニカの拳を凝視することしかできなかった。
表情豊かなモニカには、なんの感情も現れていない。いくつも刻まれている細かい皺も、消えている。
「明日、朝日が昇ったらすぐ、隣街のキシアへ行きなさい。それが、あなたのためよ」
熱が、急激に冷めていく。
「弟のサイモンへ手紙を書いておく。エルザをしばらく置いてもらえるようにって」
モニカは、キッチン奥の自室へとつま先を向け、ドアの奥へ姿を消した。エルザだけが、リビングに取り残される。
太陽は沈み切って、闇が深い。
エルザは、その真ん中を突っ切るように、二階にある自分の部屋へ駆け上がった。
薄暗い部屋のベッドに突っ伏すと、身体が沈み込んでいく。
オバケの話をされる少し前。小さな手で初めて、母の切り傷を治したとき「すごいわね」と手放しで感謝してくれた。オバケの話も、小言も、言われることはなかった。
それがいつしか、必ず言われるようになった。
「ありがとう。でも、人の前では使っちゃダメだからね」
建前の感謝は述べてくれる。でも、その本心はいつも、『でも』の後に付け加えてくる方だった。
けれど、先ほどの村人の拍手を聞いた時、純粋にただ褒めてくれた昔の母の笑顔と重なった。
だけど、それは全部妄想だった。
やっと太陽が昇り始めた空は薄暗く、家の中はまだ闇が深い。
モニカはろうそくの僅かな明かりの中、朝の作業のために手を洗っているところだった。
蛇口から流れる水の音が、エルザが昨夜から内側にくすぶらせているじめじめした感情を増殖させていくようだった。
昨晩のうちにまとめた荷物は、かなりの大きさと重さになった。
モニカに行けと言われた海の街キシア。
ここから馬で駆けて、半日はかかる。愛馬が疲れ果ててしまわないか不安を覚えるが、頑張ってもらうしかない。
エルザは細腕で、荷物を担いだ。声をかけることさえも億劫だった。
そのまま玄関のドアに手をかける。そこで、モニカは水を止め、代わりに足音が近付いた。エルザは振り返ることなく、そのまま出ていこうとしたが、肩越しから手が伸びてきた。
「これ。サイモンに渡してちょうだい」
サイモンは、モニカの弟にあたる。キシアで宿屋をやっていて、二人子供がいる。エルザも年末年始は、必ず挨拶しにいく。とても気さくで、元気のいいおじさんだ。
「力のこと。絶対に外で話さないように。もちろん、力も使わないで」
またその話。
エルザは差し出されてきた手紙を睨み付けながら、奪うように手にする。破いてしまいたかったが、そこは何とか抑えて、手の中で握りつぶす。ぐしゃっと紙が悲鳴を上げた。
モニカに咎められると思ったが、息を吐くだけで何も言わなかった。エルザは、母からもらった手紙を鞄へ乱暴に突っ込む。
「行ってきます」
逃げるように、家を出た。
朝焼けが美しい空だった。湿気のない風は、皮肉なくらいすがすがしい。
愛馬がいる小屋へと向かう。
「ルーン。長旅になると思うけれど、私と一緒に来てくれる?」
この村では珍しい白毛の馬。ルーンと名付けている。エルザによく懐いていた。
エルザが手をルーンの鼻の方へ伸ばす。ルーンは、頷くようにエルザの手に自分の顔を擦り付けた。
「ありがとう」
エルザは、きゅっと抱きしめる。どこからともなくカナリヤが飛んできて肩に止まった。
この前傷を治してあげた緑と水色のカナリヤだった。
別れを惜しみに来てくれたのだろうか。そして、真っ先に浮かんできた名前が口をついた。
「カイ……」
たかが隣街。これで二度と会えなくなるということではないけれど、気軽に会えるほどの距離ではなくなることは確かだ。
そろそろカイが畑に出て、作業を始める時間だ。
エルザは金色の長い髪を一つにまとめ、ルーンを引き連れ、小屋を出た。
何度も歩いてきた道を歩く。踏みしめる度に、じゃりっと小石が鳴った。
途端、小さい頃カイと二人で石を投げて遊んで怒られたこと、畑に無断で入って真っ赤に熟れたトマトをつまみ食いしたこと、村の近くの湖に入って一緒に泳いだこと……どうでもいいことばかりが、鮮明に頭の中で浮かんでくる。
そして、見えてきた小麦畑は、すでに刈り取られた後で、まるで自分の内側の景色を見ているようだった。
ついこの前は、金色の実がたくさん実っていたのにな。
その時、畑の真ん中に人影が見えた。
「バルおじさーん!」
エルザの大声に、大きく手を振り返してくる。カイの父だ。いつもセットでいるはずのカイの姿が見えなかった。
「カイは?」
真っ先に思い浮かんだのは、カイの顔色の悪さだった。
「エルザが心配しなくても、ピンピンしているよ。今、ちょうど遣いに出したところだ」
バルは、エルザの顔を見るなり先回りして答えた。
「そっか。それなら、よかった」
元気だということへ安堵と同じくらい会えないことへの落胆が、どうしても顔を俯かせた。
「聞いたよ。エルザに助けてもらったんだってな。ありがとうな」
顔を上げると、バルの笑顔があったが、素直に喜べなかった。ルーンが気遣うように顔を寄せてきた。
「エルザ、どこか出かけるのか?」
「うん。ちょっと、キシアに行けって言われてね」
「ずいぶん遠出だな。いつ帰ってくるんだ?」
その質問にどうしても、言葉が詰まる。バルの眉間に大きなしわが寄っていくのを見たら「帰れる日は、わからない」とは言えなかった。
「すぐ帰ってくるつもり。カイに、よろしく言っておいて」
明るい笑顔を返し、ルーンに跨り手綱を握る。
「バルおじさん、またね」
「エルザ」
バルの引き止めてくるような声を断ち切るように、握った手綱を叩く。
ルーンの高い嘶きが響いた。
エルザは横に広がる小麦畑を目に焼き付けながら、走り出した。




