エルザとカイ
◇
朝を過ぎて、昼へと向かっている太陽は燦々と森を照らし出した。
木々は緑から赤や黄色へと色づき始めている。
しかし、カイの隣を歩いているエルザの顔は、暗かった。
「モニカおばさんとまた喧嘩でもしたか?」
清々しい空気が、一気に曇った。
「……ちょっと力使っただけなのに、うるさいんだもん」
エルザは、自分の右手へと目を落とす。そこには、傷があった。
「それ、どうしたんだ?」
「カナリヤの傷を治してあげたときに、ちょっとね」
カイは、すぐにエルザの右手を掴むと、常備している水を赤い傷へ流す。
「冷たい!」
カイは、構わず水が無くなるまでかけ続け、濡れた手を簡単に拭き取ってやり、新しいハンカチをエルザの手に巻き付けた。
「大した傷じゃないから、よかったのに」
「動物につけられた傷は、ちゃんと消毒しないとダメ。自分の傷は治せないんだから、余計ちゃんとしろよ」
エルザは、他人の傷を治せても自分の傷は治せない。
エルザからそれを聞いたとき、何て不平等な話だと思ったが、今もやっぱりそう思う。
「まぁ……とりあえず、ありがとう」
エルザは、ハンカチを撫でる。
風がさっと吹き抜けた。
カイにとっては、心地よい冷たさだったが、エルザは両手で腕を擦っている。
エルザの格好は、パン作りをするための作業着で、薄手の白長袖Tシャツ一枚だった。
カイは、着ていたジャケットを脱いで、大雑把にエルザの頭に被せる。
「それ、着てろよ」
「いいの?」
被せられたジャケットの隙間から、エルザが顔を出す。
「俺は、ずっと歩き回ってるから平気」
「あったかい。ありがとう」
すぐにエルザは袖を通す。手が、ジャケットの下に隠れてしまっていた。
「昔は、私のほうが大きかったのになぁ。いつの間に逆転しちゃったんだろう」
「もう、チビとは言わせねぇぞ」
カイは、エルザを得意げに見下ろす。青い瞳とまともに視線がかち合った。
太陽の光に当たっているせいか、やけに眩しく見えた。
畑の手入れをしている時、突然動物が現れたときとよく似た心臓のはね方をする。
エルザは、袖が垂れている部分を子供のように振り回し始めていた。
「早く昼にならないかなぁ。昼寝したい」
その一言で、カイの少し早くなっていた心音は、元のリズムに戻っていた。
「その癖いい加減やめろよ」
エルザは、村の外れにある広場で眠りこける癖がある。子供ならまだしも、エルザはもう大人の女性の部類だ。いくら村が平和だと言っても、どうかと思う。
「時と場所は、ちゃんとわきまえているから、大丈夫よ。ここが村だから、安心して昼寝してるだけ」
毎回同じ言い訳を聞かされるが、昔から全く変わらない能天気さに頭が痛くなる。
「大丈夫、大丈夫。危ないって思ったときは、カイの名前思いっきり叫ぶから」
「お前な……」
「その時は、よろしくね」
エルザは笑いながら、袖をたくし上げる。モニカはエルザにさんざん癒しの力を外では使うなと言って聞かせているらしいが、本来ならばそっちより「外で眠りこけるな」と言い聞かせる方がよっぽど大事なことだったはずだ。
そう考え始めたとき「おーい」と、声がかかった。同時に、足に何かが巻き付いた。
「トマス、今日も元気か?」
カイは、足に張り付いている黒い頭にポンと手を置く。
「もちろん」と、トマスは小さな胸を張った。
トマスは村長の孫だ。今年六歳になる。
「村長は、一緒?」
「うん!」
トマスが顔を向ける。その方向に、白髪と長い白髭の村長と見知らぬ人間がいた。胸に銀色のネックレスが光っている。それは、神への忠誠の証だということくらいは、村人でも知っている。先日話に出ていた村長の親戚なのだろう。
「おー、カイとエルザ! 二人ともちょっと見ないうちに、でかくなったな!」
村長のいつもの挨拶だ。
「私は村長と一週間前に、会ったばっかり」
「俺は、三日前な」
「おー? そうだったかな?」
村長のふぉっふぉっという独特の笑い声があたりに響いた。
「ちょうど、荷物届けに行こうと思っていたところだったんだ」
カイが手に持っている荷物を掲げて見せる。
「そうか、そうか。じゃあ、ここで預かろう」
村長がそう言うと、後ろにいた男がカイから荷物を受け取る。礼儀正しく頭を下げる。首から下げている銀のネックレスが揺れた。中央に丸い穴が開いていて、そこから両サイドに羽が生えている。この村に浸透していない信仰の証。
太陽の光に反射して光っていた。エルザは、それを忌々しそうに見つめていた。
「二人とも、明日の大木祭には参加するのだろう?」
大木祭は、年に一度行われる。いわゆる木登り大会だ。一番早く登れた者には、優勝賞品が出る。
これが、村唯一の大イベントだ。
「あぁ、もちろん出るよ」
カイはやる気満々という顔をして、鼻息荒く頷く。いつもならエルザも、その勢いに乗ってくるのだが、今回は違っていた。
「あー……私は、辞退するわ」
カイは、声が出なかった。村長と顔を見合わせる。村長がカイの代わりに、質問をエルザに投げた。
「おてんば娘が、急にどうした? 毎回欠かさず参加していたではないか」
エルザは、前回の祭りでは準優勝だった。
カイは、エルザの答えを待つ。
エルザは細い指先で、前髪を横に流した。
「ほら、私はもう可憐な大人の女性だし」
エルザの言葉に、カイとトマスが大笑いしていた。
「そんなに笑うことないでしょ!?」
エルザは、鬼の形相で腰に両手を当てている。
「寝言は、寝てから……」
カイが最後まで言う前に、エルザのパンチがみぞおちに入る。
「この村も、ずいぶんと衰退してしまった。どうにかできないものか」
カイの呻き声と一緒に、村長の憂いの声が、響いていた。
◇
——翌朝。
広場から花火のような音が上がった。大木祭開催の合図だ。
エルザは窓の外から、椅子に座っているモニカへ声をかけた。
「お母さんは見に行かないの?」
「エルザ、参加しないんでしょ? だったら、私はのんびりしてる」
モニカは、そう言って棚の上に置いてある父の写真を撫でた。そういえば、父が元気だったころは、大木祭に必ず参加していた。そんな父をモニカと一緒に眺めて、応援したものだ。
「……でも、どうして今年は出ないことにしたの?」
「秘密」
適当にはぐらかしたつもりが、モニカはすっかり知ったような顔をしている。
「その顔は、どうしようもない理由なんでしょうね。本当、エルザはいつまで経っても子供ね。よっぽどカイ君の方が……」
「行ってきまーす!」
エルザは、モニカの小言をすり抜けて、急いで家を出た。
冷たい風が吹きつける。
カナリヤにつけられた傷が、うっすら痛んだ。
まっすぐ広場へ向かうと、村の住人が集まっていた。
「カイ!」
「あぁ、こっち」
手招きされて、いつもの右側に立つ。
村長の挨拶が始まった。例年と全く同じ内容でほとんど右から左へ流れたが、今年の優勝者への景品が発表されるときだけは、静まり返った。
「今回の優勝者には、城下町の宿屋二泊三日券プラス、アザレア城観光ツアーに参加できるぞ」
「興味ねぇな」
「キャベツ一年分のほうがありがたい」
同意見だった。城に行くよりも、食べ物の方がよっぽどありがたい。キャベツはあれだけど、ジャガイモだったら泣いて喜ぶところだ。辞退しようと思っていた気持ちも揺らいだかもしれない。
しかし、周囲の不満は次第に落ち着いていく。
「まぁ、いい思い出にはなるかもな」
村人は争いを好まず、和を大切にする。次第に、笑い声に変わっていた。
村長の開会の言葉も終盤に差し掛かってきた時、村長の後ろに見たことのない男が見えた。
「ねぇ、カイ。あの人、誰?」
カイの袖を引っ張る。カイもその方向へ顔を向けた。
一見、太っているようにみえたが、よく見ると筋肉で覆われている。細身のエルザの三倍ほどの厚みがありそうだ。
その上、目つきがかなり悪い。エルザが、警戒心むき出しにしていると、カイはあっさりと答えた。
「昔、村の湖のところに住んでたアランだよ」
「え?」
エルザは口に手をやる。小さいころ、カイを目の敵にして、いじめていた奴だ。
「五年前、引っ越したのに何でいるの?」
「祭りへ参加するために、わざわざやってきたんだってさ」
昔から誰よりも人相が悪かったが、拍車をかけて酷くなっている。しかも、胸にはあの銀色のネックレスがある。ますます、胃の底がむかむかした。
「一生あの顔見たくなかったのに」
「そう言うなよ」
カイの方が、よっぽど会いたくなかった相手だったはずなのに、ずいぶんと大人びたことを言う。
『よっぽどカイ君の方が……』ふと、今朝言われたモニカの小言が蘇ってきて、ずきりと手のひらが痛んだ。
「なぁ、エルザ。今回、本当に参加しないのか?」
「言ったでしょ? 私は可憐な大人の女性なの」
カイがまじまじと見つめてくる。その眼から逃れるように、エルザは横を向く。
「どうせ、俺に勝てないから参加したくない。それに加えて、景品がジャガイモだったら参加してたのにって思ってんだろ?」
エルザの心臓が危うく口から飛び出そうになる。カイの意地悪な笑みが飛び込んできた。
「単純な奴」
「悪かったわね……単純で」
モニカの言葉の続きが、勝手に紡がれていきそうになった時、頭にカイの手が乗った。
「それがエルザのいいところ」
カイは、ニッと笑う。思わず、細められた茶色い瞳に釘付けになる。カイは手を突然ひっこめて、頬を掻いた。
「もし優勝したらさ、城はともかく……城下町、楽しそうじゃん? 気分転換に、一緒に遊びに行こうぜ」
「うん!」
エルザは、間髪入れずこの日一番の笑顔で頷いていた。




