変わる時
頭を押さえられていた手から、解放され顔を上げる。無理やり押さえつけられていた怒りのままに、ベイシアを睨む。
ベイシアは意に介さない。周囲の兵を退けさせて、エルザの腕を掴んだ。
エルザは部屋から引きずり出されていた。
「離してください!」
つかまれている腕を振りほどこうとしても、びくともしない。
そのまま会議室のような部屋に連れていかれ、そこへ放り込まれる。ベイシアは、周囲の気配を探りながら扉を閉めた。
振り返ってきたベイシアの顔は、まるで別人のようだった。真っ黒な瞳がエルザを真正面から捉えている。
「エルザ。君は己の感情に振り回され、すべてを失いたいのか?」
首筋に剣を突き付けられているようだった。指一本動かすことができない。
「冷静にならなければ、地獄に落ちる。これは、団長としてではなく私個人からのアドバイスだ」
ベイシアがかつて見た景色。それを今目の前でみているかのように、真っ黒な瞳が揺れ、指さした。
「その手の汚れは目立つ。そこで洗い流しなさい」
いわれるがままに、流しの方へ足を向け、蛇口を捻った。手の感覚がなくなるほど冷たい水が、汚れを流していく。
「ベイシア団長は……地獄を見たことがあるんですか?」
ベイシアはエルザから顔を背けた。
「ある」
ベイシアはそれだけ答え、扉を開け放った。
そのまま廊下へ出ていく。遅れてエルザがベイシアの甲冑を、追いかけた。
目の前にある大きな鎧。そこには数えきれないほどの傷がたくさん刻まれていた。きっと、私なんかじゃ想像できないくらいの惨状をみてきたのだろう。
光の壁に囲まれた村。母の安否。今置かれている立場。
自分の手には、先ほどナイフを握ったときについた血がこびりついている。でも、私はきっとまだ何も知らないのだ。
『この世はな、お前なんかが考えているよりも、もっと残酷なんだよ!』
スリムに埋め込まれた棘。その部分が、ずきずきと痛む。
「ラースに謁見した時、ベイシア団長が止めてくれていなければ、取り返しのつかないことになっていたと思います」
エルザは、拳を握る。ベイシアの足が止まった。
「……失礼なことばかりして、すみませんでした」
ベイシアから、声だけが返ってきた。
「わかったのならば、いい。だが……公の場での呼び捨ては、まずい」
指摘されて、苦々しい気分しかない。口が裂けても『ラース様』なんて、呼びたくなかった。でも。
「わかりました。じゃあ、これからは『ラース殿』と呼びます」
せめてもの抵抗だ。
「カイの所へ案内しよう」
そう言うベイシアから小さな笑みが漏れていた。
中庭に面した場所に医務室と書かれている扉の前までやってくると、兵士がやってきた。
「ベイシア団長、少しお時間よろしいですか?」
「あぁ。じゃあ、エルザまた後で」
「はい。ありがとうございました」
ベイシアは、速足で去っていく。
エルザはコン、コ、コンと、独特なリズムで扉を叩いた。
勢いよく扉が開いた。外開きの扉のせいで、危うくぶつかりそうになる。
「危ないじゃない!」
反射的に出てきた抗議の声。
「いつものお返しだ」
カイがその目の前にいて、今回立場は逆だったが、村と似たようなやり取りがあったことを思い出す。ずっと忘れていた笑みが自然と零れそうになった時、カイの横に人が立った。高身長の細身体格の男性だった。目じりが垂れているから、兵の服を纏っていても威圧感がなかった。カイは、親しげに彼の肩に手を置いた。
「この人は、シフォスさん。ずっと俺の話し相手になってくていたんだ」
「あなたが、噂の聖女様」
すかさずシフォスから好奇心満ちた目線が送られてくる。
「聖女ではなく、エルザと呼んでください」
エルザは、大きなため息とともに訂正を入れる。
「カイの話は、誇張だと思ったら本当だった」
シフォスが、呟く。エルザはカイを睨んだ。
「一体、何を吹き込んだのよ」
「ありのままを話しただけさ。間違っても、可憐な女性とは言ってないから安心しろ」
エルザのパンチが、カイのみぞおちに入った。
「ノア……」
ぽつりとつぶやきが聞こえ、涙目になっているカイが首を傾げる。
「あぁ……故郷で僕の帰りを待ってる婚約者。二人を見てたら、思い出しちまった」
シフォスは、顔を赤らめて頭をかく。エルザとカイはタイミングよく目が合ってしまい、慌てて逸らした。
「ごめん、ごめん。僕は退散するよ」
シフォスは、微妙な空気だけ残して行ってしまおうとする。その背中をカイが追いかけていた。
「さっきの話、通しておいてくれるか?」
「あぁ、わかってる。団長に聞いてみるよ」
「ありがとう」
カイが手を挙げていた。
エルザは、カイと一緒に医務室の部屋へ入る。消毒液の匂いが漂った。
「トマスの具合どう?」
部屋に入ると大きめな部屋に十台ほどのベッド。どれも空だったが、窓際のベッドだけ小さな体が横たわっていた。その横へ行くと、細い腕に管がたくさんつながれているトマスがいた。
「命に別状はないって。もうすぐ目を覚ますだろうって言ってた」
「それなら、よかった」
トマスの小さな手を握ろうとしたら、カイから肩を掴まれた。
「……その血、どうした?」
スカートの裾あたりを凝視している。エルザもその方向を見やる。先ほどまで赤い服に同調して目立っていなかった血が、時間が経ったことで黒く変色していた。血の跡がくっきり残っている。
「あぁ……これは私じゃない」
玉座での出来事を、カイの名前が出たことは伏せながら、話して聞かせる。
カイの表情は険しかったが、顎に手をやりながら冷静に分析しているようだった。
「……私の力を利用して、人々の信仰心を集めようとしているんだと思う……けど」
「何か引っかかることがあるのか?」
「ラースの首には、信者の人がよく首にかけているネックレスと全く同じ意匠の金のネックレスがあったの。それを撫でながら、それでも『まだ、足りない』って、言ってたんだよね」
エルザは、自分の胸に手を当てる。
真ん中にぽっかり空いた金のネックレス。
その空白を指先で撫でていた。その動作がどうしても気になった。
「でもさ、あれだけ権力持っていて、これ以上望むものなんてないでしょう? って、聞こうと思ったんだけど……『ただの器は、黙れ』って、言われた」
「器?」
「うん」
カイは眉間にしわを寄せ、顎に手をやり考え込む。それが自分の知らないカイに見えた。
ふと、母に言われた言葉がよみがえった。
『エルザはいつまで経っても子供ね。よっぽどカイ君の方が』
まじまじと見つめていると、黒目だけが動いて視線が交わった。エルザの、口から自然と出た。
「私も、大人にならなきゃ」
「何だよ急に」
「現実はそう甘くはない。今私は、村ではない城にいて、ラースは私を利用しようとしている。だったら、私も変わらないと」
点滴がぽつぽつと、落ちる。
「ラースを逆手にとって村のみんなを救って、この現状を変えなきゃ」
透明な液体は、管を通ってトマスの体内に吸収されている。
エルザは、汚れたスカートを握った。




