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生者の器  作者: 雨宮
第二章

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選べない選択肢

 痛みでゆがんでいた兵士の顔が穏やかになり、閉じかけていた瞼が開いた。

「聖女様……ありがとうございます」

 エルザが、額に流れていた汗を拭う。

「出血が多かったので、どうか安静にしていてください。失った血は戻らないので」

 血の気を失っている兵士が、うなずく。

「誰か!」

 ベイシアは叫び、他の兵を呼ぶ。的確な指示を出し、両脇を抱えられながらその兵は下がっていった。


 もともと赤いドレスだったため汚れはそれほど目立たないが、吸い込まれた血で身体が重かった。大理石の床は、血溜まりができていた。すまないと、ベイシアが小声で言うが、怒りが収まらなかった。

「いえ」

 エルザは、ラースを睨んだ。

 ラースの首から下がっている金色のネックレスが光る。ラースはまるで意に介さない。

 

「私の力を確かめる方法は、いくらでもあったはずです! なぜ、こんな酷いやり方をしたのですか!」

 傷を癒す時に見た。兵の傷口は、容赦ない一撃だった。

 一歩間違えれば、即死していただろう。

 今起きたことは、まったく自分に関係のないことだとでもいうように、白い髭を撫でている。

「人の命を、なんだと……!」

 エルザがラースへ挑むように身体を向けた。同時に、どこからともなく兵士が現れた。一斉にエルザへ矛先を定める。それでも、内から溢れてくる熱は冷めない。

「もし、死んでいたら……どうするつもりだったんですか!」


「エルザ!」

 ベイシアの鋭い声が、エルザを止めた。

 これ以上は、ダメだ。ベイシアは、鋭い目つきで首を横に振ってくる。

 あまりに飲み込んだ感情が大きすぎて、目じりに涙が浮かびそうになる。指先の血が止まるくらい強く握った拳の痛みで、気を紛らわしながら、ラースを睨みつけた。しかし、白濁した瞳からは思考も感情も読み取れない。

 ただしわしわの唇だけが、動いた。


「お前を聖女として国民の前に立たせる」


 ラースは業務連絡のように、淡々と告げた。エルザの怒りに油を注ぐようだった。憤りが燃え上がった。

「……何を、言っているんですか?」

 ラースのこめかみが、ピクリと動いた。

「本来、大罪人であるお前がこの城に足を踏み入れることは、憚られるところだ」

 この時、初めてラースの白濁した瞳に怒りが滲んだ。その真ん中にエルザがはっきりと映っている。

 大罪。それは、ベイシアが言っていた悪魔を呼び起こすことを指しているのか。

「だが、聖典はこう記す」

 

『聖女が現れし時、悪魔が蘇り世は混乱を極めるであろう。止める術は、ただ一つ。民衆の心を一つにさせることである』


「お前は、人々の信仰をここに集めるのだ」

 ラースは、片手を高く上げる。そして、もう片方の手は金のネックレスの羽を撫でた。

 それは、自分自身への信仰を集めているとでも言っているかのようだった。


「……私を利用して、あなたへ信仰を集めるってことですか……?」

 答えはなかった。ラースは、ただネックレスを撫でる。その度に、ラースの首のチェーンがチャリンと冷たい音を立てる。

 あぁ、やっぱりだ。

 街で見かけた金色の像。すべてを包んでくれるような優しい微笑みを浮かべていた。

 でも、現実はこれだ。

 ラースの手にあるナイフには、血が滴っている。その横には、真っ赤に染まった床しかない。


「あなたに利用され続ける人生を送るくらいなら、死んだ方がましよ」

 この力は、純粋に傷ついた人の傷を癒すためにある。どう転んでも、信仰を高める道具ではない。

 赤い水たまりに、エルザの顔が映り込んでいる。自分自身を睨んでいると、ラースはそれを踏みつけた。顔が歪んで、赤い波紋が広がった。

「ならば、今ここで自ら首を切るがいい」

 ラースの抑揚のない声が、大広間全体を震わせた。そして、ラースは手の中にあったナイフをエルザの方へ放り投げた。

 ナイフがエルザのつま先に当たって止まる。

 ナイフは先ほど兵士の血で汚れていた。エルザは、それを手にしようと屈む。エルザの手は、柄にまでべっとりとこびりついている血で汚れていく。その感触さえも、もう何も感じなかった。柄を両手で握りしめる。隣で見ていたベイシアが耐えきられないとばかりに「エルザ!」と名前を叫び、エルザの手にあるナイフを叩き落した。

 ナイフが落ち、カン、カンと跳ねるようにして床を滑っていく。ラースは、そうなることを見越したように口を挟んだ。


「残念だ。お前が死んだあと、すぐにお前と一緒にやってきた二人も天へと返してやろうとしていたのだが」

 カイ。トマス。突如浮かんできた二人の顔が、歪んだ。

「シャルル国王は、カイとトマスの無事を約束してくれたわ!」

「所詮、国王は傀儡。決定権は、私にある。特別な人間であるこの私に」

 ラースは、両手を広げ、初めて笑みをこぼした。

「私こそが、その証。大天使は最高の地位。しかし、まだ足りない」

 真ん中にぽっかり空いた金のネックレスが光る。その空白を指先で撫でた手でエルザの中心を指さし、拳を握った。

 シャルル国王を差し置いてラースを大天使と崇めている民衆がいるというのに、それでもいったい何が足りないというのか。エルザには、まったく理解できなかった。


「これ以上……何を望むというの?」

「ただの器は、黙れ」

 ベイシアは、ラースの声に反応してエルザの腕を強く引いた。エルザは、バランスを崩して、その場に膝をつかされる。抗議しようと顔を上げたが、口を無理矢理閉じさせるように、頭を強く押さえられた。

「ラース様。この娘は城に来たばかりで、混乱しているのです。どうか、冷静になる時間をお与えください」

 エルザの押し付けられた額から床の冷たさが伝わる。

 視界は一面、真っ白な床。大理石の床にラースが去っていくのが見えた。エルザの横を通り過ぎていく。その横顔は、無だった。

 


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