37・独白
二年一組の教室のドアを開けた瞬間、冷房の効いた室内特有の乾燥した空気が頬を撫でた。
放課後の教室には、窓際に固まる数人の生徒と、教卓の近くで俺を待っていた二人の人影があった。美波先輩と、そして、俯いたまま指先を机に這わせているさやか先輩だ。
「おっ、お疲れ。御心君。テスト、どうだった?」
美波先輩が、いつも通りの軽い調子で声をかけてくる。その隣で、さやか先輩の肩がびくりと跳ねた。
俺は、あらかじめ用意していた「勝者の仮面」を貼り付け、極めて淡々と、けれど淀みなく答えた。
「今回は、全教科九十点以上でした。……学年一位ですね」
教室内の空気が一瞬、凍りついたような気がした。
美波先輩が「はあ!? あんた化け物じゃないの……。一年生とはいえ、この進学校でその点数って、ヤバすぎない!?どうやって勉強しているの!?」と、素直な、そして剥き出しの賞賛をぶつけてくる。
だが、俺の視界の端で、さやか先輩の表情が劇的に引きつっていくのが分かった。
その思考からは、まるで断崖絶壁から突き落とされたような、凄まじい絶望の余韻が漏れ出している。
(……凄い。凄いよ、悟君。……でも、どうしよう。私……)
「い、一年生最初の期末テストですから。範囲も狭いですし、基礎的な問題ばかりでしたので」
俺は必死に言葉を重ね、自分の点数の価値を貶めようとした。だが、逆効果だった。
さやか先輩にとって、俺の謙遜は「どうしても届かない高みにいる天才」の傲慢にしか聞こえないだろう。俺がどれほど彼女を褒めようとしても、この点数差がある以上、それは救済ではなく「強者の慈悲」という名の嫌味に変わってしまう。
俺は、彼女を傷つけている。
全力を尽くして「不正」を完遂し、彼女の隣に立つ資格を得ようとした結果、俺は彼女を最も残酷な形で突き放してしまっていた。
「……これ、私の」
さやか先輩が、消え入りそうな声で、数枚の答案用紙を差し出してきた。
俺はそれを受け取り、一枚ずつ、丁寧に目を走らせる。
そこに並んでいたのは、お世辞にも良いとは言えない数字だった。
全ての教科で赤点こそ回避しているものの、平均点には遠く及ばない。だが、その答案を精査するうちに、俺は奇妙な、けれど決定的な違和感に突き当たった。
日常的に「正解を盗む」ことに長け、他人の思考の癖を読み取ってきた俺には分かった。
この答案は、歪だ。
基礎的な、教科書を読み込めば解けるはずの問題は正解している。だが、少し捻った応用問題や、思考力を問われる難問には、迷った跡すらなく×がついている。
これがもしカンニングによる結果なら、もっと「不自然な正解」が混ざっているはずだ。
これは、他人の思考を一切盗まず、カンニングペーパーの一片すら頼りにせず、彼女が持てる全力を尽くして、真正面から戦って、そして無残に砕け散った「剥き出しの実力」の証明だった。
(……どうしてだ?あんなに『やっちゃった』って、後悔していたのに)
俺の混乱を見透かしたかのように、さやか先輩がポツリと独白を始めた。
「……実はね、私。……カンニングを、考えていたの」
その言葉に、美波先輩が息を呑む。
さやか先輩は涙を堪えるように、自分の膝の上で拳を握りしめていた。
「悟君は知っていたかもしれないけど、私は、本当に頭が良くないの。この前の中間試験では赤点を三つも取っちゃった。……だから、このままじゃ、悟君の彼女として相応しくないって思って。どうしても、高得点を取らなきゃいけないって、追い詰められて……」
彼女の声が震える。
「それでね、カンニングペーパーを作ったの。全教科分、小さな紙に書いて、どこに隠すかまで決めて。……でも、試験の日の朝。これをつける時に思ったの」
さやか先輩が、いつものカタツムリのヘアピンを、細い指先で軽くはじいた。
ゆっくりとしか進めない、けれど一歩ずつ地を這う生き物。
「……それでいいのか、って。こんな不誠実なやり方で、悟君に褒めてもらって、それで本当に、私は悟君の隣で笑っていられるのかなって」
彼女の目から、大粒の涙が零れ落ち、答案用紙を湿らせた。
「だから私、止めたんだ。……カンニングペーパー、全部、家のゴミ箱に捨ててきたの。……冷静に考えれば、馬鹿だよね。黙っていれば、バレなければ、きっと、悟君に『凄いですね』って言ってもらえたのに。……私は、そんな勇気すら持てなかった」
彼女は、自分が不正をしたことではなく、「不正という安易な道すら選びきれず、無様な結果を残してしまった自分」を、弱さだと定義して、自分を裁いていたのだ。
俺が「不正をしてしまった後悔」だと読み違えていた彼女の悲鳴は、実は「高得点を取れない予感からくる絶望」だったのだ。
「ごめんね、悟君。……分かっているんだ。悟君が、私を褒めようとしてくれていること。……でもね、私は、ダメなの。この程度の人間なの。何一つ誇れることが無くて、悟君に私を褒めさせてあげることさえ、できない。何にも、できない子なの」
さやか先輩の声が、嗚咽に混じって途切れ途切れに零れる。
「カンニングっていう最低最悪の作戦まで思いついて……。それでいて、その秘密を抱えたまま、最後まで完璧に取り繕う勇気さえ出せなかった。悟君の隣に並びたいなら実力で行くべきだ、なんて……分不相応な正義感を出しちゃって、結局出来上がったのは、この無様なテスト結果。……私は、悟君の真っ直ぐな気持ちに、何一つ応えられない。悪いことを考えちゃうくらい汚いのに、良いところを見せるために嘘をつき通す度胸もない。それでいて、頭も良くない、本当に、ただの弱い子なの……」
その言葉が、俺の胸を鋭く抉った。
分不相応なものか。それは、超能力という安易な手段に溺れた俺が、とっくの昔にドブに捨ててきた、何よりも気高く眩しい「光」じゃないか。
悪いことを考えてしまうから汚い?
違う。汚いのは、そんな葛藤すら踏み倒して、涼しい顔で「学年一位」を掠め取った俺の方だ。
さやか先輩が、顔を覆って泣き崩れる。
「……だから、もう……悟君……私と……」
最悪の言葉が、彼女の唇から零れようとした。
——別れよう。
その言葉だけは、言わせてはいけない。
俺の理性が、そしてそれ以上に、俺の魂が叫んでいた。
俺は、衝動のままに一歩踏み出した。
かつて「あなたとキスをするつもりはない」と冷徹に拒絶した、あの非情な俺は、もうどこにもいなかった。
俺は、泣きじゃくるさやか先輩の細い身体を、壊れ物を扱うような慎重さで、けれど逃がさないという強い執念を込めて、力一杯抱きしめた。
「……っ!?」
さやか先輩の言葉が止まる。
美波先輩の、驚きで固まった気配が伝わってくる。
腕の中のさやか先輩は、信じられないものに触れられたかのように硬直していた。
俺は、彼女の耳元で、静かに、けれど逃れようのない確信を持って告げた。
「さやか先輩、聞いてください」
脳内のノートに書き連ねた、バラバラの断片。
甘すぎる卵焼き。
隠されたシップ。
プリン六個。
そして、今、この腕の中で震えている、あまりに不器用で、あまりに誠実な彼女の心臓の音。
それらが一つに重なり、美波先輩がくれた「九十点」の正解に、最後の「十点」がはまった。
俺が握りしめていた「鍵」が、今、カチリと音を立てて扉を開いた。
「俺は、今のさやか先輩の話を聞いて……もっと、ずっと、さやか先輩が好きになりました」
不誠実な不正を完遂した一年生の俺が。
泥臭い正直さを守り抜いて、ボロボロになった二年生の彼女に。
今、世界で一番不純で、世界で一番真実な、愛の言葉を贈ろうとしていた。
明日一気に5話開催して完結です。




