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36・やっちゃった

 期末試験の期間中、俺たち二人の間を流れる空気はどこか刺々しく、そして酷く静まり返っていた。


 かつて俺の鼓膜を絶え間なく打ち据えていた、あの「心の爆音」——「悟君大好き!!!」という無邪気な心の声は、ここしばらく完全に影を潜めていた。代わりに俺の脳内に木霊していたのは、「どうすれば褒めてくれるかな?」「テストで高得点を取れば、悟君は隣にいてくれるかな?」という、悲しいほどに切実な自問自答の反復ばかりだった。


 ここ数日の図書館での勉強デートは凄惨だった。


 皮肉な話だ。超能力による「心を読むカンニング」は万能ではない。特に数学のように複雑な計算過程を要する科目は、他人の思考の断片を拾い集めるだけでは解答を完遂できないリスクがある。だから俺は、不正を完璧に遂行するために、本来必要のない「地力」を磨くという矛盾した努力を積み重ねていた。だから俺は、本来まだ習っていない二年生の数学の範囲を、地力でそこそこ解けるレベルの学力があった。


 一方で、隣でペンを走らせるさやか先輩の理解度は、控えめに言っても絶望的だった。一学年上の彼女に、一年生の俺が数学を教えるという逆転現象。そのたびに彼女の思考からは、薄氷を踏むような焦燥感が漏れ出し、俺たちの間の学力格差は埋めようのない溝となって横たわっていた。


 そして迎えた、試験初日の帰り道。


 並んで歩くさやか先輩の肩は、目に見えて震えていた。


(……やっちゃった。どうしてこんなことをしたの、私?)


 その思考を拾った瞬間、俺の背筋に冷たい戦慄が走った。


 間違いない。さやか先輩は、ついに一線を越えたのだ。


 あの時、彼女の脳裏をよぎっていた「カンニング」という禁忌。それを、彼女は実行してしまった。


 だが、その結論に至った直後、俺の胸に去来したのは、吐き気を催すほどの「安堵」だった。


 それは、不正の仲間ができたことへの喜びではない。


 これでようやく、彼女を「褒める口実」が手に入ったという、醜い安心感だ。


 たとえその高得点が偽物であっても、俺が嘘の称賛を贈ることで、彼女の尊厳を繋ぎ止められる。不誠実な俺と同じ泥沼に彼女が降りてきてくれたことで、俺は「鏡合わせの共犯者」として、彼女を救う資格を得たのだと——そう、歪な納得をしてしまった。


 二日目も、最終日の三日目も、彼女からは「やっちゃった」という後悔と、「ごめんね、悟君」という謝罪の念が漏れ続けた。


 三日目の日本史のテスト中、俺はクラスのガリ勉から「応仁の乱」や「執権政治」の知識を、感情のない機械のように淡々と盗み出した。その際、罪悪感など微塵も感じなかった。


 だというのに、隣の教室から届く彼女の「ごめんね」を聴くときだけは、心臓を直接素手で掴まれるような、鋭い痛みが胸を締め付けた。


 自分勝手な開き直りだと自覚している。


 俺も苦しい。けれど、さやか先輩も同じように苦しんでいる。ならば、この地獄を二人で分かち合うことこそが、今の俺たちにとって唯一の正解ではないか。


 あの日の嘘の告白と同じだ。俺は、嘘の言葉で彼女を地獄から掬い上げる。それが、不誠実な道を歩む俺の責務だ。


 そして、試験から一日空けた金曜日。審判の時が訪れた。


 返却された俺の解答用紙には、百点に近い数字が並んでいた。


 図書館での勉強デートによる特訓に、思考カンニングのブーストを最大限に足し算させた、あまりに高すぎる点数。それを見て、俺は改めて深い自己嫌悪に陥る。


(……こんな点数、今の彼女が見たらどう思う)


 もし彼女が死ぬ気で不正を働いて、それでも俺のこの数字に届かなかったとしたら。その事実は、彼女をさらに深い絶望へと突き落とすのではないか。「カンニングしても、悟君を超えられなかった」という、最悪の敗北感を与えてしまうかもしれない。


(……いや、それはもう、二年と一年では試験の難易度も評価基準も違うんだと、適当に理由をつけて誤魔化そう)


 俺は思考を強引に遮断し、帰りの挨拶と同時に教室を飛び出した。


 合流場所である二年一組の教室へと続く廊下を歩き出す。


 窓から差し込む六月の陽光は眩しいほどなのに、俺の身体には、まるで巨大な台風のような凄まじい向かい風が吹き荒れているような錯覚があった。


 一歩進むごとに、自らの不誠実さが鉛のような重みとなって足首に絡みつく。


 これから俺は、彼女に「さやか先輩、凄いです!」と声をかける。


 彼女が差し出すであろう、嘘で塗り固めた解答用紙を、聖人のような微笑みで肯定してやる。


 それは救済ではなく、共倒れへの招待状かもしれない。


 それでも、俺は歩みを止めなかった。


 廊下の角を曲がり、彼女の教室の前へと辿り着く。


 ドアの向こう側から、彼女の微かな鼓動が聞こえる。震え、怯え、けれど俺を待っている、あの悲しいほどに一途なリズム。


「……行こう」


 俺は自嘲の笑みを、そっと仮面の下に隠した。


 不誠実な自分の隣に、無理やり彼女を繋ぎ止めるために。


 俺たちは、どこまでも深く、この心地よい嘘の地獄へと堕ちていく。


 六月の湿り気を帯びた空気を深く吸い込み、俺は二年一組の教室のドアへと、ゆっくりと手をかけた。

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