35・優しい嘘
土日をかけて、俺は脳細胞が焼き切れるほどに思考を巡らせた。
自室の机に広げたノートには、およそ脈絡のない単語が並んでいる。
『お弁当』『卵焼き』『バスケ』『シップ』そして『プリン六個』『あーん』。
客観的に見れば、それは単なる支離滅裂な備忘録に過ぎない。だが俺にとっては、どれもが「さやか先輩」という迷宮を解き明かすための、切実な鍵の欠片だった。
美波先輩との相談の時から増えた、あの六個のプリンの存在。
風邪を引いた身で大量のプリンを俺に食べさせようとした、支離滅裂な言動。その行為の中に確かにあった献身の心にも、何か決定的な鍵があるような気がしてならなかった。
(……でも、まだ足りない)
それらをどれだけ繋ぎ合わせても、美波先輩が提示した「頑張っているところが好き」という九十点の正解を、あと十点分、超えられない。抽象的な概念として、彼女を唯一無二だと定義する言葉にまで昇華できないのだ。
結局、答えはまとまらないまま、月曜日の放課後を迎えた。
六月の湿り気を帯びた空気が、駅へと続く緩やかな坂道に立ち込めていた。
来週に迫った期末試験の話題が、どちらからともなく自然に浮上する。
「御心君は、本当に成績が良いんだよね。……凄いね。尊敬しちゃうな」
さやか先輩のその言葉が、今の俺たちには酷く残酷に響いた。
俺は、彼女の成績が赤点ギリギリどころか、科目によってはそれを下回ることを知っている。そして、彼女も俺の成績を知っている。彼女の口から漏れた純粋な「尊敬」の言葉が、埋めようのない格差を浮き彫りにし、より俺たちの心の距離を遠ざけた気がした。
俺が何か、体裁を整えた返球をしようとした、その時だった。
(……カンニングをして、高得点を取ったら)
鼓膜を震わせたのは、彼女の唇から漏れた声ではない。
俺の脳内に直接流れ込んできた、彼女の「思考の毒」だった。
(……そうすれば、御心君は、私のこと褒めてくれるかな。……『先輩、凄いですね』って、笑ってくれるかな)
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
それは、俺でなければ決して気づけない、極めて卑劣で、そしてあまりに悲しい作戦だった。
確かに、彼女が不正をして高得点を記録し、俺が「先輩、流石です」と賞賛すれば、彼女の尊厳は一応の回復を見るだろう。
だが、それは彼女を本当の意味で満たすのか? カンニングという卑劣さを隠したまま、俺が心にもない称賛の言葉を吐く。それは彼女の「汚れ」を肯定し、彼女をさらに暗い泥沼へと突き落とすだけではないのか。
しかし、だとすればどうすればいい?
カンニングをしなければ彼女は赤点を取り、さらに自尊心を失うのだ。俺の隣に立つ資格がないと、勝手に自分を裁いて壊れてしまうかもしれない。
注意すべきか。それとも、諭すべきか。
そう考えた瞬間、駅の改札前のガラス窓に映る、自分の顔と目が合った。
無機質なガラスの向こう側で、俺の瞳が自嘲気味に揺れている。
(……どの口が、それを言うんだ)
内心で、どろりとした自己嫌悪が溢れ出した。
そもそも、俺に彼女を咎める資格など、最初から一分もありはしない。
試験の最中、他人の思考を読み取り、最適解を平然と綴り続けている俺。カンニングペーパーに頼るか、超能力に頼るか。本質的な不誠実さに、一分の差もありはしないのだ。
俺たちは、鏡合わせの共犯者だ。
彼女がカンニングという禁忌に手を染めようとしているのは、楽をしたいからじゃない。俺という人間に、少しでも追いつきたい。失望されたくない。ただそれだけの、狂おしいほどに一途な強迫観念が、彼女を追い詰めている。
で、あれば。俺にできるのは一つしかない。
彼女にカンニングをさせ、俺はそれに気づかないフリをする。そして、彼女が手に入れた「偽物の栄光」を、最高の笑顔で褒め称えるのだ。
(……ああ、そうだよ。丸く収まるじゃないか)
そう結論づけながらも、胸の奥が激しく締め付けられた。
心にもない言葉で彼女を褒め称える。それは、彼女の魂をさらに削る、最も残酷な延命措置だ。もし今回成功してしまえば、彼女は今後、一生「不正」という劇薬なしでは俺の隣にいられなくなるかもしれない。
でも、今はそうしないといけない。
俺がさやか先輩のどこが好きかを、完璧に言語化できるようになるまで、俺は彼女を嫌ってはいけないのだ。点数が低いとか、ズルをしたとか、そういう負の感情を一切表に出してはいけない。
だって――さやか先輩が、壊れてしまうから。
「……御心君? どうしたの、急に黙り込んで」
さやか先輩が、不安げに俺の顔を覗き込む。
俺は、自分の中の「汚れ」を無理やり飲み込み、精一杯の「優しい嘘」を顔に貼り付けた。
「いえ。試験が終わったら、またどこか遊びに行きたいな、と考えていただけです。だから先輩、頑張ってくださいね」
「……!……うん、私、頑張るね。絶対に、御心君を驚かせてみせるから」
彼女の顔に、決意と、そしてどこか追い詰められたような悲壮な光が宿る。
「……楽しみにしてます」
駅の改札へと吸い込まれていく彼女の後ろ姿。
これは優しい嘘だ。だから、そうするべきなんだ。
そもそも、この歪な関係だって、俺が優しい嘘の告白をしたから始まったんだ。今更、何も問題なんてありはしない。
自分をそう誤魔化しながら、俺は一人、家路を急いだ。




