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34・デートの外側

 駅前の喧騒が少しずつ熱を帯び始める中、ファーストフード店の窓際で、俺は思考の海に深く潜っていた。


 目の前では美波先輩が、四つ目のポーションミルクを投入した、もはやコーヒーとは呼べないほど白い液体を啜りながら、じっと俺の反応を待っている。


 一昨日の朝。間違いなく、俺は「別れるため」に家を出た。


 殺人の運命を回避させた後、この歪な関係を合理的に清算するための、いわば「終わらせるための儀式」として、あの遊園地デートを位置づけていたはずだ。


 俺は目を閉じ、記憶のフィルムを逆回転させる。


 朝、集合場所で彼女の持つ重そうなお弁当箱を預かった時。


「俺は、また失敗した」と思った。彼女が用意した『彼女らしい活躍の場』を、俺の余計な配慮が奪ってしまったと分析した。焦りはあったが、そこに愛着の芽生えはなかった。


 入園後、彼女の靴紐が解けたり、財布をロッカーに置き忘れたりした時。


 沈んでいく彼女の心音を聞きながら、俺は「このままではデートが破綻する」というプロジェクト上の危機感に苛まれていた。けれど、それは「好き」とは違う種類の動悸だった。


 その後、ベンチで「あーん」をされた時。そして、「私のどこが好きか」と問われ、頓珍漢な答えをしたあの最悪の瞬間。


 胸を切り裂いたのは、期待に応えられなかった加害者としての罪悪感と、彼女を救いきれなかったという敗北感だ。そこには、純粋な好意など一片も混ざっていなかった気がする。


「……きっかけが、ない」


 俺はポツリと呟いた。


 どれだけ記憶を浚っても、タクシーに乗って彼女の家を出るその瞬間まで、俺の意識が「彼氏」として変質した決定的な場面が見当たらない。


 いや、正確には――。


「変わったのは、デートの中じゃない。……終わった後だ」


 あの甘すぎる卵焼きから察せられた、キッチンでの彼女の孤独な格闘。


 それらを繋ぎ合わせ、彼女がどれほどの祈りを込めてあの「不格好な結末」を作り上げたのかを考えた、あの時間。その時、俺の中の何かが決定的に壊れ、そして再構築されたのだ。


 そして今、美波先輩から聞いた玉入れに向けてさやか先輩が積み上げていた準備に、俺は心が揺れ動いた。きっとそれと、根源は同じだ。


 だが、その正体を言語化できない。


 お弁当、卵焼き、バスケ、シップ。具体的な名詞は溢れているのに、それらを束ねて「さやか先輩の魅力」として提示するための、抽象的で強固な言葉が、まだ俺の手元にはなかった。


 眉間に皺を寄せたり、ふっと視線を彷徨わせたりと、ころころと表情を変える俺を、美波先輩は呆れたように、けれどどこか温かい目で見つめていた。


「……あー、もう。あんたのその、もどかしいくらい必死なところ、アイツに見せてやりたいわね」


 美波先輩はポテトの最後の欠片を口に放り込み、指を拭った。


「多分だけどさ。御心君。あんた、アイツの『頑張っているところ』が、たまらなく好きなんでしょ?」


 その言葉は、俺の心に真っ直ぐに突き刺さった。


 そうだ。限りなく正解に近い。


 彼女の不器用な献身、報われない努力、それでも俺に相応しくあろうともがくその泥臭い姿。


 美波先輩の提示した答えは、間違いなく九十点を超えている。


「……ええ。九十点、くらいは。でも、あと十点、足りないんです」


 俺は、自分でも驚くほど頑なな声で返した。


 美波先輩の言葉に頷けば、楽になれる。けれど、残りの十点――彼女を決定的に「特別」たらしめる最後のピースだけは、他人の言葉で埋めてはいけない気がした。


 せめてそのたった十点分くらいは、能力にも頼らず、誰の助けも借りず、俺自身の力で見つけ出し、彼女に届けたかった。


「はぁ……。なんというか、面倒な性格してるわね。まあ、いいわよ。その『十点』、死ぬ気で見つけなさいな」


 美波先輩はトレイを片付けようと席を立った。


 俺もそれに合わせて立ち上がり、朝早くから付き合ってくれた礼を伝えて、店を出ようとする。


 だが、美波先輩は足を止めなかった。


「アタシは、ここに残るよ。……さやかからさ、さっきメッセージが来たんだ。『相談したいことがある』って。ここで待ち合わせしてるの」


 その言葉に、俺は立ち尽くした。


 つい先日まで、誰にも相談できず、たった一人で殺意という暗い沼に沈もうとしていた彼女が。


 今、自分の意志で友人を頼り、言葉を紡ごうとしている。


 その確かな「変化」と「成長」に、胸の奥が熱くなるような、しみじみとした感動を覚えた。


「……それも、秘密、ですね」

「当たり前でしょ。アイツ、あんたにだけは『ダメな子』だと思われたくないんだから」


 美波先輩の言葉に、俺は少しだけ眉を寄せ、真剣な面持ちで返した。


「別に、友人に相談するのは『ダメな子』じゃないですよ。むしろ、一人で抱え込まずに頼れるようになったんだから、今のさやか先輩は以前よりずっと『良い子』です。俺は、そう思いますけど」


 理屈で塗り固めた俺の正論に、美波先輩は一瞬だけ呆気に取られたような顔をした。けれどすぐに、観念したように肩を揺らして笑い出す。


「……あはは!直球な言い方だね。まあ、理屈じゃそうなんだけどさ。でも、さやか本人はそう思ってないし、とにかく格好悪いところを見せるのを死ぬほど恥ずかしがってるわけ。……ったく、乙女心ってのは難しいわね?どう?これを聞いて、さやかをめんどくさいと思った?」


「まさか。また一つ、さやか先輩の事を知れて嬉しいですよ」


 俺が苦笑しながら答えると、美波先輩はニッと笑い、再び自分の席へと戻っていった。


「また連絡しな。あんたの出す『百点満点』の答え、楽しみにしてるからさ」


 背後に聞こえる美波先輩の応援を背に、俺は店を出た。


 六月の明るい日差しが、駅前のロータリーを白く照らしている。


 結局、まだ言葉は固まりきっていない。


 今この瞬間にさやか先輩と鉢合わせれば、俺はまた、気の利かない言葉を返してしまうだろう。


 けれど、焦りはなかった。


 彼女は今、俺の知らないところで、俺のために「相談」という戦いを始めている。


 ならば俺も、戦わなくてはならない。


 彼女の魅力を、彼女の尊厳を、彼女が俺の隣にいるべき理由を。


 世界で一番正確な言葉で定義するために。


 俺は、昨日の夜風の冷たさを思い出しながら、自分自身の内面を、もう一度、深く、深く見つめ直すための帰路についた。


 家に着く頃には、その「十点」が見つかっていることを信じて。

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