32・好きというエゴイズム
帰宅ラッシュの混雑に身を任せながら、俺は吊り革を握りしめていた。
窓ガラスに映る自分の顔は、どこか酷く疲れ果てているようにも見え、それでいて憑き物が落ちたような奇妙な静けさを湛えていた。
お義母さんに言われた言葉が、電車の規則的な振動に合わせて、心臓の奥深くまで沈み込んでいく。
――さやかを、もっと好きになってあげて。
その一言が、駅に停まるたび、乗客が入れ替わるたびに、逃れようのない重みを持って俺を支配し始めていた。
もし、その言葉に従ってしまったら。俺がいよいよもって、さやか先輩の「彼氏」として、彼女の手を離せなくなる。
それは冷徹なシミュレーションの結果というよりも、直感として導き出された、それでいて確実な未来の予測だった。
俺は一度目を閉じ、これまでの経緯を脳内で整理した。
当初の目的は、極めて明確だったはずだ。
まだ名前も知らなかった彼女が、明日殺人を犯すという未来を「聞いて」しまったから。その破滅から彼女を救うために、俺は「告白」という手段を選んだ。
彼女を人殺しにさせない。その一点において、俺の作戦は成功したと言える。
だが今、彼女は別の「罪」に囚われていた。
彼氏に対して何もできない、愛を返しきれない「役立たず」という、彼女自身の潔癖さが生み出した自責の罪だ。
(……今なら、見捨てられるんだ)
ふと、そんな思考が頭をよぎった。
今の彼女はボロボロだ。俺がここで「やっぱり無理だ、別れよう」と告げれば、彼女は死ぬほど傷つきながらも、それを大人しく受け入れるだろう。
地獄のように後味の悪い、最悪の別れ方。けれど、そうすれば俺は、当初予定していた「平穏な日常」へと帰還できるはずだった。
だが。
もしもここで、俺がさやか先輩を本気で好きになってしまったら。
俺は、もう二度と彼女を手放せなくなる。
それは義務感でも、能力による使命感でもない。俺自身の身勝手な「エゴ」として、彼女を「彼女」という枠に繋ぎ止め、俺の傍に置き続けたくなるだろう。
だって、好きになってしまうのだから。好きになったものを手放したくないと願うのは、生物としての根源的な欲求だ。
(それは本当に、俺が望んでいることなのか? 本当に、一線を越えてしまっていいのか?)
自問自答を繰り返す脳裏に、さやか先輩の掠れた声が響いた気がした。
『ごめんね、悟君』
その謝罪を聞いた瞬間に、胸の奥がどろりとした熱に焼かれる。
元々は、さやか先輩の心の爆音からおさらばするために、さっさと別れる予定だった。
でも、今は違う。はっきりとそう断言できる。
いつか俺に褒められることを唯一の希望として、必死に泥の中を這いずり回っている彼女を、俺はもう捨てられない。
けれど、それは憐れみでも、情けでもない。
もっと単純で、もっと幼稚で、もっと独占欲に満ちた衝動だ。
彼女に立ち直ってほしい。
あの、耳が壊れるような、生命力に溢れた心の爆音をもう一度聞きたい。
俺だけに向けられた、心底満ち足りた笑顔をこの目で見たい。
……エゴイズムだ。理屈じゃない。
きっと、この「割り切れない感情」の正体こそが、世間で言うところの「好き」という気持ちなのだ。
そう自覚した瞬間、俺は別の壁にぶち当たった。
今朝まで、俺は「別れるため」に彼女を立ち直らせようとしていた。
なのに、今はどうだ。なぜ、好きになった? いつから、別れたくなくなった?
俺はいつ、彼女を「好き」だと自覚できるほど、彼女に魅了されていたんだ?
分からない。
「心の爆音が恋しい」とか「不器用にお弁当を作ってくれたのが嬉しい」とか、もやもやとした言葉はいくつか浮かんでは消える。
けれど、どれも今の俺が感じているこの巨大な感情を説明するには、あまりに表現が浅すぎる。
もっと深く、もっと正確に。
彼女という存在を定義し、その魅力を、俺が彼女を好きになった理由を、揺るぎない言葉で語れるようにならなければいけない。
そうでなければ、俺はまた、彼女を傷つける。
あの遊園地の観覧車で、何も思い浮かばず、無理解に満ちた言葉を返し、ただ絶望に沈んでいく彼女を眺めているしかなかった無力な自分を、俺は二度と繰り返したくない。
(まずは、より彼女を知るべきだ。俺が見落としている、彼女の真髄を)
俺はスマホを取り出し、画面をタップした。
宛先は、美波先輩。
彼女なら、俺の知らない「さやか先輩」を、俺とは違う視点から見てきたはずだ。
『明日、土曜日に時間をください。さやか先輩の、俺がもっと好きになれそうなエピソードを語ってほしいんです』
送信ボタンを押してから、俺は我ながら馬鹿げたことをしていると自嘲した。
「好きになるためのポイント」を他人に頼んで探してもらうなんて、滑稽の極みだ。
「好きになる理由なんて、自分で見つけろよ」という内なる冷笑が聞こえる。
けれど、今の俺にはこれしか手段がない。
お義母さんに課された宿題。それは「さやか先輩をもっと好きになること」だ。
だったら、その正解に向かって進むことに、失敗はないはずだ。
俺は、分析しなきゃいけないんだ。
なぜ好きなのか。どこが愛おしいのか。
それを論理的に、かつ情熱的にぶつけられるように準備をしておかなければ、あの時のように彼女を悲しませかねない。
俺の言葉不足のせいで、彼女がまた「憐れみ」だなんて勘違いをしないように、徹底的に彼女の魅力を言語化してやる。
電車を乗り換え、郊外の静かな夜へと戻っていく。
明日は早起きだ。美波先輩には悪いが、前回の「消極的なアドバイス」の汚名を返上する機会だと思って、共に早起きしてもらう。
揺れる車内、俺はスマホをポケットにしまい、深く息を吐いた。
夜風の冷たさを思い出しながら、胸の中に灯った小さな、けれど消えることのない熱を確かめる。
明日、俺は彼女を「もっと好きになる」ための武器を手に入れる。
そして、その次は――。
家路を急ぐ俺の足取りは、いつの間にか、今朝のそれとは比べ物にならないほど力強いものに変わっていた。




