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31・もっと好きになってあげて

 おかわりのご飯から昇る湯気の向こうで、お義母さんはふっと目を細めた。


 俺の吐き出した「合理的な絶望」をすべて飲み込んだ後で、彼女は慈しむような声で呟いた。


「さやかも、空回りしているのね」


「……も?」


 俺は、おかわりをよそってもらったばかりの茶碗を手に、思わず問い返した。


 さやか先輩「も」。その言葉の真意を測りかねている俺に、お義母さんは悪戯っぽく笑って、自分の若かりし頃の話を始めた。


「昔……私が高校生だった頃、私もね、夫――あの時はまだ彼氏だったけど――に愛を与えようとして、必死に空回りしていたのよ。あなたほどじゃないかもしれないけれど、夫は当時からすごく良くできた立派な人でね。そんな彼に見合う自分になりたくて、バレンタインに、背伸びしてとんでもなく手の込んだチョコを作ろうとしたことがあったわ」


 お義母さんは懐かしそうに、宙を見つめる。


「結果は散々。テンパリングも何も滅茶苦茶で、見た目も味も、とても食べられたものじゃなかった。でも、当時の私は『彼に喜んでもらわなきゃ』って必死で……結局、大泣きして彼を困らせちゃったの」


 それは、今のさやか先輩と驚くほど重なる姿だった。


 お義母さんは、かつての自分を愛おしむように言葉を続ける。


「その空回りがようやく落ち着いたのは、ずっと後のこと。大学受験をして、第一志望の大学に受かった時だったわ。彼が、心の底から『凄いね!』って言ってくれたの。その一言で、私はようやく、自分に自信を持てた。ああ、私は彼の隣にいてもいい人間なんだって、初めて対等になれた気がしたのよ」


 お義母さんは、俺の目を真っ直ぐに見つめた。


「当時の私と、今のさやかは、すごく似ていると思う。だから、分かるの。あの子が本当に欲しいのは、あなたが自分のレベルまで降りてきてくれることじゃない。自分の価値を上げるための『お膳立て』をしてもらうことでもないの。ただ……自分自身の価値を、あなたに気づいてもらうこと。たったそれだけ」


 その言葉は、俺の超能力でどれだけ深層心理を探っても、決して辿り着けなかった真理だった。


「御心君。あの子はもう、とっくに自分一人で駆け出しているわ。あなたが変に背中を押したり、逆に危ないからってブレーキをかけたりしたら、転んでしまうくらいに、一生懸命走っている。だから……待っていてあげて。そして、あの子の価値が光る瞬間を絶対に見逃さないでほしいの」


 俺は、視線をダイニングの奥に向けた。


 リビングのソファで、泥のように眠っているさやか先輩。


 俺は、今日食べたあの卵焼きの味を思い出す。形は崩れ、味は砂糖の塊のようだった。けれど、あのお弁当を作るために、彼女はどれだけの時間を台所で過ごしたのだろうか。


 彼女は料理に慣れていない。それは、お義母さんが作るこの完璧に調和の取れた料理を食べれば分かる。それでも彼女は、俺のために、今日のデートのために、今朝、どれだけ試行錯誤を重ねたのだろうか。


 おそらく、俺が今日のデートに誘わなくても、彼女はいつか「約束のピクニック」と称して、あのお弁当で勝負を仕掛けていたはずだ。


 彼女は、俺の知らないところで、俺に守られるだけの「お荷物」から脱却しようと、既に戦い始めていたのだ。


「つまりね、さやかは今、頑張っている最中なの」


 お義母さんが話をまとめるように、静かに、けれど力強く言った。


「あなたがおせっかいをしなくても、あの子は自分で、あなたに相応しい自分になろうと、できることを必死に探している。だから、それを見てあげて。……分かりやすく言うなら、御心君。さやかを、もっと好きになってあげて」


 胸の奥に、すとんと何かが落ちた。


 視界が開けるような、重苦しい霧が晴れていくような感覚。


 彼女の欠点を補うことでも、彼女を傷つけないように先回りすることでもない。


 ただ、一人の人間として、彼女が必死に獲得しようとしている「魅力」を信じて、見つけてあげること。


 それが、彼氏である俺に課せられた、唯一にして最大の役割。


 その説得力のある言葉に、俺は救われたような気がした。


 比べたら悪いが、以前、恋愛経験のない美波先輩たちに相談した時の、あのふわふわとした消極的なアドバイスとは訳が違う。圧倒的な実感を伴う納得感が、俺の全身を満たしていく。


 気づけば、香ばしいハンバーグも、おかわりされた山盛りのご飯も、出汁の効いた味噌汁も、すべて綺麗に平らげていた。


 俺の心と体は、お義母さんの作った「本物の調和」を、いつの間にか受け入れていた。


「あら、綺麗に食べてくれたわね。……ふふっ、よかった。ねえ、帰るなら、タクシー呼んであげましょうか?」


 お義母さんの申し出に、俺は首を振った。


「いえ……夜風に当たって、考えたいことがあるので。歩いて帰ります」


 俺は椅子から立ち上がり、ソファで眠るさやか先輩をもう一度だけ見つめた。


 うなされているような彼女の寝顔を見ても、焦らず、落ち着いてそれを受け入れられた。


「ごちそうさまでした。ありがとうございます……本当に、色々と助かりました」


 俺は、お義母さんに向かって深々と頭を下げた。


 この家に来た時、俺の心は敗北感と困惑で泥沼のようだった。けれど今は、心地よい疲労感と、進むべき道の微かな光が胸にある。


 玄関を出ると、五月の夜風が火照った頬を撫でた。


 少し冷たいその風は、思考を研ぎ澄ませるのにちょうど良かった。

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