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30・本物の「安心感」

 尽櫛家のダイニングに漂うのは、炒めた玉ねぎの甘い香りと、じっくりと肉が焼き上がる香ばしい匂いだった。


 出されたハンバーグに箸を入れると、肉汁が溢れ出し、デミグラスソースと混ざり合う。口に運べば、確かな経験に基づいた、安定した美味しさが広がった。


 それは、今日食べた、あの「甘すぎる卵焼き」とは比べ物にならない、完璧に調和のとれた美味しさだった。


「ふふ、お口に合ったかしら。御心君、お箸が止まっていないわね」


 お義母さんは、向かいの席で嬉しそうに微笑んだ。その微笑みは、さやか先輩のそれよりもずっと落ち着いていて、どこか春の陽だまりのような温かさがある。


「はい。すごく……すごく美味しいです」

「良かった。夫とさやかには悪いけど、今は御心君を独り占めさせてもらうわね。さやかってば、家ではあなたの話ばっかりするのよ」


 お義母さんは楽しそうに、色々なことを聞いてきた。


 さやか先輩が宝物にしているカタツムリのヘアピンのこと。今日彼女が着ていた、お気に入りだという淡いブルーのワンピースのこと。


 そして話題は、俺がこれまでに「解決」してきた事件へと移っていった。


 いじめっ子が逆恨みで刃物を持ち出してきたあの日、俺がさやか先輩の前に立ちはだかったこと。体育祭で連続窃盗犯を追い詰め、彼女の安全を確保したこと。


 どれも、俺がさやか先輩を「助けた」話だった。


 聞くたびに、本来なら誇らしくなるはずだった。


 大切な人を守り抜いた実績。最悪の結末を回避した成功体験。


 だが、お義母さんが感謝の言葉を重ねるたびに、俺の胸は鉛を流し込まれたように重く、苦しくなっていった。


 これまでの積み重ねこそが、今のさやか先輩を「何もできないお荷物」だと思い込ませ、彼女の自尊心を削り取ってきた原因そのものだったのだから。


「食べ盛りの男の子は良いわね。作った甲斐があるわ。……はい、おかわり」


 お義母さんは自然な動作で、俺の空になった茶碗に白ご飯を山盛りにそそいだ。


 湯気が立つ炊き立てのご飯。差し出されたその温もりは、俺の強張った心を優しく解きほぐしていくようだった。


 お義母さんは、俺の顔をじっと見つめ、静かに、けれど逃れられない響きで問いかけた。


「……さて、おかわりもよそったし、本題に入りましょうか。御心君、あなたは何に悩んでいるのかしら?」


 その問いは、鋭い追及ではなく、ただ迷子になった子供の手を引くような、圧倒的な包容力に満ちていた。


 なぜ自分でも、ここまでさやか先輩のお義母さんに悩みを吐露しようと思えたのか、俺には分からなかった。けれど、目の前で穏やかに微笑むお義母さんの前では、嘘も、取り繕った仮面も、すべてが意味をなさなかった。


「……さやか先輩の前で、俺は『彼氏』として、かなりよくやっているつもりでした」


 自分で言うのはひどく気恥ずかしかったが、事実はそうだった。


 彼女が喜ぶことを選び、彼女が傷つかないように立ち回り、彼女の望む「理想の彼氏」を演じ続けてきた。


 だが、俺が「完璧」であればあるほど、さやか先輩は「彼女」として俺に愛を返しきれない自分を責め、苦しんでいたのだ。


「今日のデートも、そうだったんです。俺は……わざと学校をサボるようなダメな彼氏を演じました。そうすれば、彼女の負担が減ると思ったから。ジェットコースターに怖がって、情けない姿を見せたり、膝の上で甘えてみせたり……そうやって、彼女に『自分が必要とされている』という安心感を与えようとしたんです」


 俺の言葉は、止まらなかった。


「……けど、ダメだったんです。それ以上に彼女がトラブルを重ねすぎたし、何より、俺のこの『接待』に、彼女は気づいてしまった。俺の優しさが、彼女にとっては『憐れみ』でしかなかったことに、気づかせてしまったんです」


 俺の声が震える。


 彼女のプライドを、彼女の魂を、俺の「接待」という名の傲慢が粉々にしてしまった。


 さやか先輩の膝の上で、頬を濡らしたあの熱い涙。あれは、俺の嘘に対する彼女の、最大の、そして悲痛なまでの拒絶だったのだ。


「何をすれば……何をすれば、さやか先輩は自信を取り戻せるんでしょうか。もう、俺には、何が正解なのか分からないんです」


 喋り終えた俺は、項垂れた。


 合理的な解など、どこにも見当たらない。


 どれほど能力を使っても、どれほど思考を巡らせても、彼女の心を救うための正しい選択肢が、俺の辞書からは消え失せていた。


 お義母さんは、何も言わなかった。


 ただ、優しい微笑みを絶やすことなく、俺の一言一言を、零れ落ちる水滴を拾い上げるように、丁寧に聞き届けてくれていた。


 否定もせず、助言もせず、ただ、黙って。


 俺の吐き出した「合理的な混乱」を、その大きな器で、静かに、優しく包み込んでくれていた。


 そこには、さやか先輩がどれほど背伸びをしても辿り着けなかった、本物の「安心感」があった。


 俺は、自分の鼓動の音を聞きながら、お義母さんの次の言葉を、ただ静かに待っていた。

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