29・自分のエゴ
頬を濡らした「雨」が止むのを待って、俺はゆっくりと膝枕を解除した。
視界が開ける。そこには、泣き腫らして赤くなった瞼と、隠しきれない涙の跡を湛えたさやか先輩の顔があった。
俺は、気づかないふりをした。
ここで「大丈夫ですか」と声をかけることは、彼女が必死に守ろうとした「雨」という嘘を暴くことになる。それは、今度こそ彼女の心を完全に殺してしまう。だから俺は、義務感と化した「接待」を続行した。
「……さやか先輩、次はあっちの観覧車に行きましょうか。あそこなら、園内が一望できますから」
彼女は、何も言わずに頷いた。
観覧車のゴンドラがゆっくりと地上を離れ、夕暮れに染まり始めた遊園地が眼下に広がる。
「……アレ、何でしょうね? すごく変な形のアトラクションですけど」
俺は、あからさまなパスを出した。彼女に「彼女」として解説するチャンスを与えようとしたのだ。
「……何だろうね。……ごめんね、悟君。私、よく分からなくて……」
その返答に、俺は絶望した。
彼女の能力から響いてくるのは、もはや叫びですらない。ザーザーと降り続く砂嵐のような、ホワイトノイズ。
気がついた時には、既に彼女の歩みは泥の中を歩いているかのように重かった。その後、いくつかのアトラクションを巡ったが、状況は好転しなかった。メリーゴーランドの木馬に揺られている時も、コーヒーカップの片隅で小さくなっている時も、彼女の瞳に光が戻ることはなかった。
彼女ムーブをするだけの気力は、さっきの「雨」と共に枯れ果てていた。
そして、事態は俺の予測を超えた方向へと転がり落ちた。
彼女は「お荷物」であることを気に病むあまり、肉体と精神の限界という「究極のお荷物」状態へと陥ってしまったのだ。
「……さやか先輩? 顔色が悪いですよ。あそこのベンチで休みましょう」
ベンチに腰を下ろした彼女の肩が、力なく揺れている。
病み上がりで回復しきっていない身体。早起きしてのお弁当作り。午前中の「彼女ムーブ」をしようとした過度な張り切り。そして何より、俺の「接待」に気づいてしまったことによる、精神的な絶望。その状態で健康な男子高校生である俺のペースに合わせようと、彼女のキャパシティはとっくにオーバーフローしていたのだ。
「飲み物、買ってきます。ここで待っていてください」
俺は逃げるようにその場を離れた。自販機で冷たいお茶を買い、わずか一分で戻ってくる。
だが、その短い間に、俺の能力に届いていた彼女のノイズが、完全に消失した。
「……さやか先輩?」
心臓が跳ね上がる。駆け寄ると、彼女はベンチに突っ伏したまま、深く、重い眠りに落ちていた。現実の絶望から逃避するための、魂の防衛本能に近い昏睡。
(……バカか、俺は)
ペットボトルを握りしめる指が震える。
「彼女に花を持たせよう」なんて、お膳立てに固執して、一番大切な「彼女の体調」すら見えていなかった。このまま彼女が目を覚ましたら、彼女は「デートの途中で寝てしまった自分」を、またどれほど責めるだろうか。
平穏のために彼女を利用しているはずの自分が、なぜこれほどまでに、彼女の「失敗」を彼女の視点で案じて、胸を痛めているのか。
……分からない。合理的に考えれば、彼女が勝手に自滅して、勝手に別れようとしてくれるなら好都合なはずだ。なのに、俺の胸の奥は、どろりとした不快な熱に焼かれている。彼女の自尊心が削れるたびに、俺自身の存在意義まで否定されているような、そんな得体の知れない共感覚に、俺はひどく困惑していた。
もはや、電車で帰ることは不可能だった。
俺はスマホでタクシーを呼び、眠り続ける彼女を支えるようにして乗り込んだ。
夕闇が迫る車内。規則的なエンジンの振動。隣で規則的な寝息を立てるさやか先輩。
俺の心に残ったのは、完璧に失敗したという、泥のような敗北感だけだった。
タクシーが尽櫛家の前に止まる。
玄関の明かりがつくと、エプロン姿の女性――さやか先輩のお義母さんが出てきた。
「あらあら、どうしたの?」
最初は驚いた表情を見せたお義母さんだったが、ぐったりと眠っている娘の姿を見て、即座にすべてを察したようだった。彼女は俺の手を制し、俺の代わりに手際よくタクシー代を支払ってくれた。
「さやかが、せっかくのデートで迷惑をかけちゃって、ごめんなさいね。悟君」
家の中にさやか先輩を運ぶのを手伝い、玄関先で立ち尽くす俺に、お義母さんは穏やかに言った。
「……いえ。迷惑なんかじゃないです。本当に……本当に……」
否定すればするほど、自分の「お膳立て」がいかに彼女を追い詰め、この眠りにまで追い込んだかを思い知らされる。迷惑をかけたのは、俺だ。彼女の心を読み、分かったふりをして、彼女のプライドを更に粉々にしたのは、他でもない俺なのだ。
「……俺が、無理をさせたんです。……さやか先輩に、良い思いをさせてあげようと勝手に立ち回って……そのくせ、一番大事な彼女の限界に、僕は気づけませんでした」
絞り出すような告白に、お義母さんは静かに耳を傾けてくれた。そして、見透かすような、けれど温かい眼差しを俺に向けた。
「……ねえ、御心君。さやかに食べさせる予定だった夕飯、代わりに食べていってくれないかしら? あの子の最近の様子も聞きたいの。さやかから、悟君の格好良いところは幾つも聞いているから、お礼もしたいし」
断るべきだった。
これ以上、彼女のプライベートな領域に踏み込むべきではない。だが、お義母さんの差し出した、あまりに真っ直ぐな言葉に、俺の凍りついた合理性は脆くも崩れ去った。
「……いただきます」
俺は、尽櫛家の門を潜った。
遊園地で食べた「失敗作の弁当」ではない。
彼女を形作ってきた、本当の日常の味が待つ食卓へ。




