28・雨
芝生広場に広げられたレジャーシートの上。俺が放った「安心感や余裕」という、安全なテンプレートから引用したはずの言葉は、五月の爽やかな風に溶けるどころか、鋭い氷の礫となって彼女を貫いたようだった。
「……………………」
さやか先輩の沈黙に、俺は、自分の失策を即座に理解した。
理解してしまった。俺は単に、的外れなコメントをしたのではない。今のさやか先輩の状態と、正反対の言葉を投げつけてしまったのだ。
午前中から失敗を重ね、スマホを忘れ、財布をロッカーに入れ、靴紐すら満足に結べなかった彼女。そんな自分を「お荷物だ」と責め、必死に「彼女」の虚像を維持しようともがいていた彼女に対し、俺は「安心感がある」と言い放った。
それだけではない。そもそも、普段の彼女は毎日俺につきまとって、爆音の好意をぶつけてくる。束縛感がないどころか、むしろ「ある側」の人間だ。それなのに俺は、彼女に嫌われないよう、あるいは機嫌を取るために、彼女の現実とは乖離した理解像を押し付けた。
それは、心を読まずとも分かった。
彼女にとって、その言葉は救いでも肯定でもない。
「悟君は、本当のダメな私なんて見ていない。都合のいいお世辞を私に答えただけ」という、絶望的な断絶の証明だった。
「……さやか先輩?」
「……ううん、なんでもないの。ごめんね、変なこと聞いて」
彼女は無理に口角を吊り上げ、剥がれかけた仮面を必死に張り直そうとする。だが、その瞳の奥に淀む暗い沈黙が、俺の胸を嫌な重さで圧迫した。
(……不味い。この空気を、どうにかしなきゃいけない)
パニックに近い焦燥が、俺の合理性をかき乱す。
本来ならここで距離を置くべきなのかもしれない。だが、今の彼女をこのまま放っておけば、彼女の心は二度と浮上してこない気がした。
俺は話題を強引に逸らし、少しでも機嫌を戻そうと、もっとも「カップルらしい」はずの提案を口にした。
「……えっと、あの。次は、僕がさやか先輩に食べさせてもいいですか? あーん、してください」
役割を逆転させる。
彼女は「愛されること」で、少しは満足してくれるのではないか。そんな安直な計算だった。
さやか先輩は、幽霊のような足取りで俺の前に座り直し、小さな口を開けた。俺が箸で運ぶたびに、彼女の心からは「喜び」ではなく、どろりとした「無力感」が溢れ出していく。
そして、その澱みの底から、今まで聞いたこともないような、醜悪で、かつ悲しいほどに甘い思考が芽吹くのを、俺の能力が捉えた。
『……いっそのこと、私は完全なダメ人間になってしまおうか。……家事もできない、勉強もできない、何一つ悟君の役に立てない、どうしようもない抜け殻に。……そうすれば、悟君はもっと私に構ってくれる。もっと優しくしてくれる。……それでも、愛してもらえる気がするから』
俺の背筋に、冷たい汗が流れた。
それは向上心の放棄。彼女が彼女として積み上げてきた矜持をすべて捨て去り、絶望に裏打ちされた「依存」へと堕落しようとする予兆。
(……不味い。このままだと彼女は、彼女としてのプライドどころか、人間らしい何かすら失いかねない……!)
そんな破滅は、俺の望む「平穏」とは程遠い。
殺人事件を止めるために始めたこの関係だが、これはさやか先輩を救いたいという思いがあって始まったところもある。この関係によって彼女の魂を殺すわけにはいかなかった。
何より、目の前の少女が壊れていく様を、ただ「計画通りだ」と見過ごすことなんて、今の俺には不可能だった。
危機感に突き動かされ、俺はさらに踏み込んだ「機嫌取り」を繰り出した。
「……ひ、膝枕とかしてください」
周囲には、まだピクニックを楽しむ家族連れの姿がある。
本来の俺なら、死んでも口にしないようなセリフだった。だが、「あーん」という羞恥の壁を越え、さらにその先の「破滅」を予感してしまった今、もう恥ずかしがる意味なんてどこにもなかった。
「……え? ここで……?」
「……ダメ、ですか?」
上目遣いで、縋るように問う。
さやか先輩は戸惑いながらも、小さく頷いて、その淡いブルーのワンピースに包まれた膝を差し出した。俺は、彼女の太ももに、ゆっくりと頭を乗せた。
伝わってくるのは、驚くほど柔らかい膝の感触。
五月の陽光に温められた生地の質感と、彼女特有の、あの石鹸のような清廉な香り。本来なら、多感な男子高校生として心拍数が限界を突破し、理性がオーバーヒートしてもおかしくないシチュエーションだ。
だが、俺の思考は、驚くほど急速に冷え切っていった。
柔らかい膝。甘い香り。その物理的な幸福感と、真逆の信号が俺の頬に届いたからだ。
ポツリ。
雲一つない、透き通るような五月晴れ。
雨が降るはずなんてない空の下、俺の頬に、熱い水滴が落ちた。
『……ああ。やっぱり、そうだ。悟君の今の焦り方、そういう事だ。』
頬を伝うその一滴の熱が、俺にすべてを理解させた。
さやか先輩は、気づいてしまったのだ。俺が彼女の「心のノイズ」を読み取り、彼女が傷つかないように、彼女が「彼女」としての面目を保てるように、今日一日を、緻密に、かつ慎重に「お膳立て」していたことに。
『……悟君、私が悩んでいる事に気がついているんだ……。だから、私を元気づけようと、学校を休んでデートに誘ってくれて、お弁当を美味しいって言ってくれたんだ。……分かっているよ。悟君は学校を休んでデートに行く人じゃないし、あのお弁当はあまり美味しくなかったのだから、変だと思ったよ。でも……気づきたくなかったなぁ……』
彼女の心から漏れ出るのは、もはや爆音ではない。すべてを諦めたような、乾いた砂が崩れるような音。
『……今の膝枕も、お互いの「あーん」も……全部、私を元気づけるための「接待」だったんだ。……私、悟君に愛されているんじゃなくて、憐れられていただけなんだ……』
残酷な真実。俺が良かれと思って差し出したすべての「救済」が、彼女にとっては、自分の無能さを改めて突きつける刃となってしまった。俺の隣に並び立つ「彼女」としてのプライドが、音を立てて砕け散る。
俺は、上を向こうとした。謝るべきなのか、それともさらに嘘を重ねるべきなのか。だが、その動きは、彼女の震える手によって優しく制せられた。
「……今、雨が降ってるから。……上を向かないでね」
さやか先輩の声は、今にも消えてしまいそうなほど掠れていた。彼女は、俺の目を隠すように、そっと両手を添えた。
視界が、彼女の掌によって閉ざされる。膝の柔らかさと、手のひらの温もり。そして、それらを無慈悲に裏切るように俺の頬を濡らし続ける、熱い雨。
心地よいはずの膝枕が、今はどんな拷問よりも痛い。
彼女の顔を見てはいけない。泣き顔を暴いてはいけない。その「お願い」という名の拒絶に応じることしか、今の俺にはできなかった。
他人の心が聞こえるという、呪いのような超能力。そのせいで俺は、彼女が今、どんなに惨めで、どんなに孤独な場所に立っているのかを、誰よりも鮮明に知ってしまっている。
助けようとして、壊してしまった。守ろうとして、一番大切なものを奪ってしまった。
二人の距離は、今、これ以上なく近い。触れ合う肌の熱も、重なる吐息も、確かにここにある。なのに、俺たちの間には、どんな能力を使っても埋めることのできない、暗く深い亀裂が走っていた。
(……どうすれば、良かったんだ)
答えは出ない。俺はただ、視界を塞がれたまま、彼女の膝の上で、降り止まない雨の熱さを噛み締めていた。




