表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

27/36

27・私のどこが好き?

 コインロッカーから取り出された保冷バッグは、ずっしりと重かった。


 それは、午前中の失敗でボロボロになったさやか先輩の自尊心が、最後の一片を懸けて詰め込んだ「物理的な愛」そのものだ。


 俺たちは人混みを避け、園内の端にある芝生広場にレジャーシートを広げた。


 抜けるような青空。遠くで聞こえる子供たちの歓声。そして、目の前には、少しだけ形がいびつで、けれど丁寧に詰められた二段重ねのお弁当。


 これ以上ないほど、平和で、完璧なデートの情景だ。


「……あ、あのね。悟君。……お口、開けて?」


 さやか先輩の顔は、先日の風邪の時よりも赤く染まっていた。


 震える箸の先に、黄金色の卵焼きが鎮座している。断面からはじゅわりと出汁……ではなく、明らかに過剰な砂糖による蜜が滲んでいた。


『……あ、あーんって……私、今、すごく「彼女」っぽいことしてるよね……?悟君の役に立っているよね?これで、午前中のドジを全部上書きして、悟君を幸せにするんだから……!』


 鼓膜に刺さる、必死で、切実な爆音ノイズ。


 俺は覚悟を決めた。これはただの食事ではない。瀕死の彼女の心を繋ぎ止めるための、人道的な「救済儀式」なのだ。


「……あーん」


 促されるままに口を開き、その塊を受け入れる。


 刹那、強烈な甘みが舌を蹂躙した。


 甘い。度を越して甘い。卵の風味を完全に殺し、脳の血管をダイレクトに叩くような、致死量の糖分。


「……どうかな? 美味しい……?」


 縋るような瞳。俺は咀嚼を続けながら、全神経を使って表情を固定した。


 合理的に考えれば、栄養バランスも味の調和も崩壊している。だが、今の俺に求められているのは、批評家としての正論ではない。


「……美味しいですよ。すごく、さやか先輩らしい味がします」


 嘘ではない。この過剰なまでの甘さは、彼女の過剰なまでの献身そのものだ。


 俺がそう告げた瞬間、さやか先輩の背後でパアァ、と花が咲くような明るいノイズが響いた。


『……よかったぁ! 美味しいって言ってくれた! ……あ、でも……なんだか不思議。……私、前にもこうやって、悟君に何かを食べさせた気がする……。なんだっけ。すごく幸せで、でも、もっと必死だったような……』


 俺の背筋に冷たい汗が流れる。


 風邪のお見舞いでの「プリン六個事件」の記憶だ。あの時の彼女は「役に立ちたい」という一念で、俺を半ば強制的に介護していた。


「えっと、あの、次はタコさんウインナーが食べたいです。……あーん」


 強引に話題を逸らし、さらなる「あーん」を要求する。


 あの時の記憶を呼び起こさせてはいけない。今の彼女には、あくまで「自分から進んで愛を与えていること」への能動的な満足感で満ちてもらわなければならないのだ。プリン六個を彼氏の胃袋に詰め込んだという、ある種の失敗談を思い出して後悔する暇は、コンマ一秒たりとも存在しない。


 時間はゆっくりと過ぎていった。


 箸でつまんで口に運ぶ。ただそれだけの動作を繰り返すたびに、さやか先輩の心のノイズから「ごめんね」という澱みが消え、純粋な喜びの色が混じり始めていく。


 その光景に、俺はどこかで安堵していた。


 これでいい。このまま穏便に、慎重に、この偽りの平和を維持し続ければ、このミッションは成功だ。


 そう。そう思っていた。


 デザートのうさぎ型リンゴを、彼女が差し出してきた、その時までは。


「ねえ、悟君」


 さやか先輩の声から、先ほどまでの浮ついた調子が消えていた。


 彼女はリンゴを持った手を少しだけ下げ、真っ直ぐに俺の目を見つめた。


「……悟君は、私のどこが好き?」


 静かな、あまりに静かな問いだった。


 だが、俺の耳には、それがこれまでのどんな爆音よりも重く、響き渡った。


 かつて、学校の正門前で「告白」をしたあの日と同じ質問。


 けれど、今の問いには、午前中の失敗を経て剥き出しになった、彼女の魂の叫びが混じっていた。


『……私は、何もできない。……お弁当だって、本当は失敗してるかもしれない。なるべくマシな見た目の物を入れたけど……それでも、このお弁当は失敗作の類だと自分でも思う。今日もドジで、お荷物で、悟君に迷惑ばっかりかけちゃった。……教えて、悟君?私のどこが好きなの……?教えて……?私の存在意義を……。教えて……?私は悟君に何をしてあげられているの……?』


 思考が、止まった。


 俺は答えを探して、己の内面という名の暗い井戸を覗き込む。


 ……さやか先輩の、どこが好きなのか。


 そもそも、俺は彼女を「好き」なのだろうか。


 例えば、当初ボサボサだった髪は、美容院に連れて行ったことで見違えるほど綺麗になった。


 また、耐え難かった心の爆音も、最近では脳が勝手にフィルタリングし、あるいは「慣れ」という名の麻痺が訪れている。


 だが、それはマイナスがゼロになっただけだ。


「嫌い」が「普通」になっただけで、そこから先の「好き」という領域に、果たして俺は足を踏み入れているのか。


 他人の心が読める。その能力のおかげで、俺は「他人の心」を情報として受け取ることには長けている。


 でも、湧き上がる「自分の心」を聞き取ることには、超能力も使えないし、ひどく不器用だった。


 もしも、ここで「実は好きじゃない」と答えたらどうだ。


 それが、彼女を突き放し、平穏を取り戻すための最短ルートだ。


 そうすれば彼女は絶望し、俺の元から去っていくだろう。決定的な破局だ。二度と彼女は俺に話しかける事もないだろう。


 ……だけど。


 目の前で、答えを待つように震えている彼女の指先を見ていると、その一言が喉に詰まって出てこない。


(……壊したくない)


 俺が求めているのは「平穏」であって、「破滅」ではない。それは、俺だけの話ではない。あの日、俺が動いた事で巻き込んださやか先輩もそうだ。


 午前中、あんなに「悲しいノイズ」を響かせていた彼女を、これ以上突き落とすことなんて、俺の合理性が許さなかった。


 必死で、脳内の辞書を捲る。


「今にも折れてしまいそうな儚さ」なんて言葉は、もう使えない。今の彼女は、俺を支えようと必死に背伸びをして、表面上は笑っているのだから。


 俺は、あらかじめ用意していた「理想の彼女像」のテンプレートを、記憶の底から引きずり出した。


「……そうですね。さやか先輩の……その、年上の安心感とか」


 絞り出すような声で、言葉を紡ぐ。


「……束縛しない余裕とか、大人なところ。……そういう、落ち着いた雰囲気が、好きですよ」


 言った。


 それは、世間一般のラブコメなら満点の回答のはずだ。彼女が目指している「頼りになるお姉さん」という理想を、全肯定する答え。


 だが。


 さやか先輩の顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのがわかった。


「……そっか。…………ありがとう……」


 その声は、春の陽光の中でも凍りついてしまいそうなほど冷たかった。


 彼女は、今にも泣き出しそうな、あまりに悲痛な顔で微笑んだ。


 彼女の心から漏れ出してきたのは、爆音ではない。


 深く、暗い、底なしの孤独のような沈黙だった。


 間違えた。


 俺は、彼女を救うための言葉を選んだつもりだった。なのに、その言葉が、彼女にとっては「自分そのもの」を否定する、空虚な記号に聞こえてしまったのだ。


「……さやか先輩?」


 俺の声が、上擦る。


 俺は他人の心が読める。


 それなのに、目の前の少女がなぜ、こんなにも絶望に染まっているのか、その核心が掴めない。


「……ど、どうして、そんな事を聞いたのですか?」


 俺の問いかけは、広場を吹き抜ける風にかき消されそうになるほど、弱々しく響いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ