27・私のどこが好き?
コインロッカーから取り出された保冷バッグは、ずっしりと重かった。
それは、午前中の失敗でボロボロになったさやか先輩の自尊心が、最後の一片を懸けて詰め込んだ「物理的な愛」そのものだ。
俺たちは人混みを避け、園内の端にある芝生広場にレジャーシートを広げた。
抜けるような青空。遠くで聞こえる子供たちの歓声。そして、目の前には、少しだけ形がいびつで、けれど丁寧に詰められた二段重ねのお弁当。
これ以上ないほど、平和で、完璧なデートの情景だ。
「……あ、あのね。悟君。……お口、開けて?」
さやか先輩の顔は、先日の風邪の時よりも赤く染まっていた。
震える箸の先に、黄金色の卵焼きが鎮座している。断面からはじゅわりと出汁……ではなく、明らかに過剰な砂糖による蜜が滲んでいた。
『……あ、あーんって……私、今、すごく「彼女」っぽいことしてるよね……?悟君の役に立っているよね?これで、午前中のドジを全部上書きして、悟君を幸せにするんだから……!』
鼓膜に刺さる、必死で、切実な爆音ノイズ。
俺は覚悟を決めた。これはただの食事ではない。瀕死の彼女の心を繋ぎ止めるための、人道的な「救済儀式」なのだ。
「……あーん」
促されるままに口を開き、その塊を受け入れる。
刹那、強烈な甘みが舌を蹂躙した。
甘い。度を越して甘い。卵の風味を完全に殺し、脳の血管をダイレクトに叩くような、致死量の糖分。
「……どうかな? 美味しい……?」
縋るような瞳。俺は咀嚼を続けながら、全神経を使って表情を固定した。
合理的に考えれば、栄養バランスも味の調和も崩壊している。だが、今の俺に求められているのは、批評家としての正論ではない。
「……美味しいですよ。すごく、さやか先輩らしい味がします」
嘘ではない。この過剰なまでの甘さは、彼女の過剰なまでの献身そのものだ。
俺がそう告げた瞬間、さやか先輩の背後でパアァ、と花が咲くような明るいノイズが響いた。
『……よかったぁ! 美味しいって言ってくれた! ……あ、でも……なんだか不思議。……私、前にもこうやって、悟君に何かを食べさせた気がする……。なんだっけ。すごく幸せで、でも、もっと必死だったような……』
俺の背筋に冷たい汗が流れる。
風邪のお見舞いでの「プリン六個事件」の記憶だ。あの時の彼女は「役に立ちたい」という一念で、俺を半ば強制的に介護していた。
「えっと、あの、次はタコさんウインナーが食べたいです。……あーん」
強引に話題を逸らし、さらなる「あーん」を要求する。
あの時の記憶を呼び起こさせてはいけない。今の彼女には、あくまで「自分から進んで愛を与えていること」への能動的な満足感で満ちてもらわなければならないのだ。プリン六個を彼氏の胃袋に詰め込んだという、ある種の失敗談を思い出して後悔する暇は、コンマ一秒たりとも存在しない。
時間はゆっくりと過ぎていった。
箸でつまんで口に運ぶ。ただそれだけの動作を繰り返すたびに、さやか先輩の心のノイズから「ごめんね」という澱みが消え、純粋な喜びの色が混じり始めていく。
その光景に、俺はどこかで安堵していた。
これでいい。このまま穏便に、慎重に、この偽りの平和を維持し続ければ、このミッションは成功だ。
そう。そう思っていた。
デザートのうさぎ型リンゴを、彼女が差し出してきた、その時までは。
「ねえ、悟君」
さやか先輩の声から、先ほどまでの浮ついた調子が消えていた。
彼女はリンゴを持った手を少しだけ下げ、真っ直ぐに俺の目を見つめた。
「……悟君は、私のどこが好き?」
静かな、あまりに静かな問いだった。
だが、俺の耳には、それがこれまでのどんな爆音よりも重く、響き渡った。
かつて、学校の正門前で「告白」をしたあの日と同じ質問。
けれど、今の問いには、午前中の失敗を経て剥き出しになった、彼女の魂の叫びが混じっていた。
『……私は、何もできない。……お弁当だって、本当は失敗してるかもしれない。なるべくマシな見た目の物を入れたけど……それでも、このお弁当は失敗作の類だと自分でも思う。今日もドジで、お荷物で、悟君に迷惑ばっかりかけちゃった。……教えて、悟君?私のどこが好きなの……?教えて……?私の存在意義を……。教えて……?私は悟君に何をしてあげられているの……?』
思考が、止まった。
俺は答えを探して、己の内面という名の暗い井戸を覗き込む。
……さやか先輩の、どこが好きなのか。
そもそも、俺は彼女を「好き」なのだろうか。
例えば、当初ボサボサだった髪は、美容院に連れて行ったことで見違えるほど綺麗になった。
また、耐え難かった心の爆音も、最近では脳が勝手にフィルタリングし、あるいは「慣れ」という名の麻痺が訪れている。
だが、それはマイナスがゼロになっただけだ。
「嫌い」が「普通」になっただけで、そこから先の「好き」という領域に、果たして俺は足を踏み入れているのか。
他人の心が読める。その能力のおかげで、俺は「他人の心」を情報として受け取ることには長けている。
でも、湧き上がる「自分の心」を聞き取ることには、超能力も使えないし、ひどく不器用だった。
もしも、ここで「実は好きじゃない」と答えたらどうだ。
それが、彼女を突き放し、平穏を取り戻すための最短ルートだ。
そうすれば彼女は絶望し、俺の元から去っていくだろう。決定的な破局だ。二度と彼女は俺に話しかける事もないだろう。
……だけど。
目の前で、答えを待つように震えている彼女の指先を見ていると、その一言が喉に詰まって出てこない。
(……壊したくない)
俺が求めているのは「平穏」であって、「破滅」ではない。それは、俺だけの話ではない。あの日、俺が動いた事で巻き込んださやか先輩もそうだ。
午前中、あんなに「悲しいノイズ」を響かせていた彼女を、これ以上突き落とすことなんて、俺の合理性が許さなかった。
必死で、脳内の辞書を捲る。
「今にも折れてしまいそうな儚さ」なんて言葉は、もう使えない。今の彼女は、俺を支えようと必死に背伸びをして、表面上は笑っているのだから。
俺は、あらかじめ用意していた「理想の彼女像」のテンプレートを、記憶の底から引きずり出した。
「……そうですね。さやか先輩の……その、年上の安心感とか」
絞り出すような声で、言葉を紡ぐ。
「……束縛しない余裕とか、大人なところ。……そういう、落ち着いた雰囲気が、好きですよ」
言った。
それは、世間一般のラブコメなら満点の回答のはずだ。彼女が目指している「頼りになるお姉さん」という理想を、全肯定する答え。
だが。
さやか先輩の顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのがわかった。
「……そっか。…………ありがとう……」
その声は、春の陽光の中でも凍りついてしまいそうなほど冷たかった。
彼女は、今にも泣き出しそうな、あまりに悲痛な顔で微笑んだ。
彼女の心から漏れ出してきたのは、爆音ではない。
深く、暗い、底なしの孤独のような沈黙だった。
間違えた。
俺は、彼女を救うための言葉を選んだつもりだった。なのに、その言葉が、彼女にとっては「自分そのもの」を否定する、空虚な記号に聞こえてしまったのだ。
「……さやか先輩?」
俺の声が、上擦る。
俺は他人の心が読める。
それなのに、目の前の少女がなぜ、こんなにも絶望に染まっているのか、その核心が掴めない。
「……ど、どうして、そんな事を聞いたのですか?」
俺の問いかけは、広場を吹き抜ける風にかき消されそうになるほど、弱々しく響いた。




