26・神様に邪魔された遊園地デート
金曜日の午前九時。本来なら退屈な現文の授業が始まっているはずの時間、俺は駅前の噴水広場で、人生最大級の「毒」を待ち構えていた。
視界の端、人混みを割って、眩しいほどの色彩が飛び込んでくる。
「悟君、おはよう!ごめんね。お弁当を作っていたら、ちょっと遅くなっちゃった!」
「構いませんよ。まだ電車の時間には余裕がありますし。お弁当、楽しみです」
淡いブルーの生地が、春の陽光を反射してキラキラと輝いている。俺がショッピングモールで選んだ、彼女の肌の白さを引き立てる一着。ぶんぶんと千切れんばかりに振られる手には、明らかに「二人分」の保冷バッグが握られていた。
『今日は、悟君の悪いことに付き合ってあげる、理解のある彼女になるんだ……!』
鼓膜を震わせる、気合十分の爆音ノイズ。
美波先輩の助言、「格下の居場所に降りてダメな男になれ」を実践するには絶好の機会だ。俺はあらかじめ用意していた「頼りない後輩」の仮面を被り、口を開きかけた。
だが、そのバッグの重みで彼女の細い指が赤くなっているのを見た瞬間、俺の身体が勝手に動いた。
「……お弁当、持ちましょうか?」
しまった、と気づいた時にはもう遅い。
「いいの!今日は私が悟君をエスコートするんだから!これくらい、私に任せてっ!」
さやか先輩は胸を張って固辞したが、その拍子にバッグの角が自分の膝に強打した。
『痛っ……!……あぅ、でも悟君の前で変な声出しちゃダメ。お姉さんとして、これくらい平気な顔をして……!』
思考が筒抜けの俺にとって、その強がりはあまりに痛々しい。結局、俺は「これ、結構重そうだし、俺が持ったほうが歩くスピード上がりますから」と、身も蓋もない正論でバッグを奪い取ってしまった。
開始三十秒。早くも俺は「助ける側」のポジションに収まってしまった。
遊園地に到着してからも、神様は徹底して俺の作戦を邪魔しにかかった。
いや、正確にはさやか先輩の「役に立ちたい願望」を、無慈悲に粉砕し続けた。
「あっ、ご、ごめんね悟君! すぐ結ぶから!」
入園してすぐ、張り切りすぎたさやか先輩の靴紐が解けた。
俺が足を止めて待っていると、彼女は必死にしゃがみ込んで紐をいじり始めたが、焦れば焦るほど指が震えているのが丸見えだ。
『どうしよう、悟君を待たせてる……!不器用だと思われたら嫌だ……!』
視線を感じるたびにノイズが乱れる。結局、俺は彼女の前に膝をつき、「じっとしててください。解けやすい結び方になってますよ」と、淀みない手つきで完璧な蝶々結びを完成させてしまった。
さらに、絶叫マシンから降りた直後のことだ。
「……わ、私、スマホを女子トイレに忘れたかも……っ!」
青ざめる彼女を連れて、絶叫マシンに乗る前に訪れた女子トイレへ向かい、更にその後落とし物センターに向かってスマホを回収する、およそ三十分間。彼女の背中からは、遊園地の賑やかな音楽をかき消すほどの音量で、重苦しい謝罪のメロディが流れていた。
「え、えっと、あそこのソフトクリーム、悟君に奢らせて!スマホの忘れ物で、迷惑かけちゃったし!」
汚名返上とばかりに彼女が財布を取り出そうとしたが、その手は空を切った。
財布は、さっき「重いから」とロッカーに預けたお弁当バッグの底に入れてしまっていたらしい。
「……あ」
「……」
沈黙。俺は無言で自分の財布を出し、二人分のソフトクリームを購入した。
「……すいません。俺、小遣い前ですけど、ソフトクリーム代くらいはありますから。……今は、俺に奢らせてください」
それは精一杯のフォローだった。だが、彼女の心にはみるみるうちに絶望が広がっていく。
俺は焦った。このままでは、彼女の自尊心が死ぬ。
俺はソフトクリームを一口舐めると、大げさに肩を震わせて見せた。
「……さっきのジェットコースター、本当に怖かったです。今も足が震えて、まともに歩けません。……さやか先輩、僕、やっぱりダメな男ですね」
美波先輩直伝の「弱音作戦」。これで「よしよし」と甘やかしてもらえれば、さやか先輩の「彼女スイッチ」が入るはずだ。
だが、さやか先輩は俺の顔を力なく見つめ、消え入りそうな声で呟いた。
「……うん……私も怖かった……」
それは、ただの同意だった。ジェットコースターが怖かった。そんな、小学生でも言えるようなありきたりな感想では、さやか先輩の「彼女スイッチ」は電源がつかなかった。ただ単に無言の時間を僅かに埋めただけにしかならなかった。
ベンチに並んで座り、溶け始めたソフトクリームを口にする。
周囲には幸せそうなカップルや家族連れの笑い声が溢れている。だが、俺の脳内に届くのは、ドブ川の底に沈んでいくような、暗く淀んださやか先輩の独白だった。
『ごめんね、悟君。……私がドジなせいで、悟君にばっかり苦労させて。……私、全然、彼氏を支える素敵な彼女っぽくない。これじゃあ、ただの足手まといだ……』
ノイズが、悲しい。
普段の「悟君大好き!」という爆音なら、まだ対処のしようがあった。だが、今の彼女から漏れ出るのは、自分自身を切り刻むような、鋭く、冷たい自責の念だ。
(……クソ。なんだこれ)
俺は自分の胸のあたりが、得体の知れない不快感で締め付けられるのを感じた。
他人の「心の汚れ」なんて、今まで嫌というほど聞いてきたはずだ。なのに、彼女から発せられるこの「ごめんね」という響きだけは、どんなドブ川の愚痴よりも俺の精神を削り取っていく。
このままではいけない。
合理的に考えれば、ここでデートを切り上げて解散するのが「別れる」ための最短ルートである。殺人事件を止めたあの日の願いを叶えるならば、そうするべきなのだ。
だが、今の俺は、その選択肢を脳が拒絶していた。
別れる前に、さやか先輩の、この「悲しいノイズ」を止めたい。別れた後の破滅を望んでいるわけではないのだ。それは、己の未来だけでなく、さやか先輩の未来もそうなのだ。
「……さやか先輩」
俺は食べ終えたソフトクリームの紙を丸め、彼女の顔を正面から覗き込んだ。
彼女が唯一、自信を持って「与える側」になれる場所。この遊園地の中で、俺が手出しできない聖域がまだ一つだけある。
「ソフトクリームだけじゃ、全然足りないです。お腹が減りました。……ちょっと早いですけど、お昼にしましょう」
さやか先輩が、弾かれたように顔を上げた。
「……え? でも、まだ十一時半だよ?」
「関係ないです。俺の胃袋が、もう限界だって言ってるんです。……さやか先輩が朝早く起きて作ってくれた『重いやつ』、今すぐ僕に食べさせてくれませんか」
あえて、少しだけ我儘な、子供のような口調で言った。
すると、彼女の淀んでいた瞳に、小さな灯が灯るのが見えた。
『……あ。そうだ。お弁当。……あのお弁当は、悟君のために一生懸命作ったんだ……!』
ノイズの色が、一瞬で変わる。
沈んでいたメロディが、期待と緊張の混じった、いつもの「騒がしい響き」へと急浮上していく。
「……うん! わかった! 今すぐロッカーに取りに行こう!」
弾んだ声でそう言うと、さやか先輩は残りのソフトクリームのコーンを一息に飲み込み……むせて咳き込んだ。
その背中をさすりながら、俺は大きく溜息をつく。
……結局、俺は彼女を救おうとしてしまっている。
「ダメな男」になるどころか、彼女を守るために奔走している自分に、言いようのない敗北感を覚えた。
とはいえ、まだだ。まだ決定的な敗北はしていない。この後「あーん」をされても構わない。卵焼きが度を超えて甘かろうとしょっぱかろうと構わない。彼女に役に立った気になってもらう。それがこの後のミッションだ。それさえ出来るならば、俺は何でも良かった。




