25・相談
体育祭から二日が経ち、喧騒が嘘のように静まり返った放課後の教室。さやか先輩は風邪が治ったものの、今日も念のため欠席していた。
世界の静かさにこれだけ苛立ったことがあっただろうか。耳栓をせずとも、彼女の「爆音の愛」が聞こえてこない。本来ならこれこそが俺の求めていた平穏な日常のはずだったが、目を瞑ると浮かび上がる、昨日のさやか先輩の達成感に溢れた笑顔が、それを許さなかった。
俺は二年一組の教室へ向かい、さやか先輩の友人である美波先輩に声をかけた。彼女はニ人の友人に囲まれ、相変わらずの調子で笑っていた。
「やあ!御心君!待ってたよ!相談したいのでしょ!?いいよいいよ!恋愛マスターのこの美波様に何でも聞きなさいな!」
「美波、あんた一度も彼氏いた事ないでしょ」
「それで恋愛マスターって……」
「うるさい!あんたたちもいた事ないでしょ!」
その軽快なノリのやり取りに、俺は少しだけ救われるような気がした。……だが、俺が抱えているものは、そんなキラキラした恋愛相談で片付くような代物ではない。
「……相談したいことがあります。美波先輩」
俺の声音が、あまりに低く、湿り気を帯びていたからだろう。美波先輩の笑みが、わずかに引きつった。
「え、あ、うん。何? 改まって……」
「……さやか先輩は、今、自分の価値を見失っています。俺が何かをすればするほど、彼女は自分が『お荷物』だと思い込み、自尊心を削り込んでいる。昨日の夜も、熱があるのに俺にプリンを六個も食べさせて、自分も『与える側』であることを証明しようとして、そのまま倒れました」
俺が「さやか先輩が自己肯定感を失い、自分を『お荷物』だと思い込んで自爆している」という実情を、一切の虚飾を排して伝えると、教室の空気は一変した。美波先輩の笑みが消え、周囲の生徒たちも気まずそうに目を逸らす。
「そ、相談が重い……」
「難しい事を聞いている事は承知しています。何でも良いです。何か、アドバイスをください」
「うーん……アレかな?男の子と違って、女の子は基本的に彼氏が凄ければ凄いほど素直に喜ぶものだけど、さやかは真面目だからね。あるいは年上としてのプライドもあって、ただただ甘え続けるのが難しいのかな?」
美波先輩は腕を組み、顎をさすりながら俺をじろりと見た。
「ただ、アタシが話を聞いている感じだとさ、問題の根本は御心君が凄すぎるってことではなく、二人の間に『格の違い』みたいなものがあるからでしょ? あんたは常に救う側で、あの子は常に救われる側。その絶対的な勾配が、さやかを窒息させてるんだよ」
「……格の違い、ですか」
「そう。だったら、御心君がさやかの居場所に降りたら解決するんじゃない? 完璧な王子様を辞めて、もっとダメなところを見せて、あの子に『私がいないとダメなんだから』って思わせてあげなさいよ」
一理ある。だが、同時にひどく危うい解決策だとも感じた。俺がダメな男を演じたところで、彼女の「超解釈フィルター」が発動すれば、失敗に終わるだけではないのか。
「何か、もっといい方法はないかな?」
「あー……勉強を教えるとかどう?」
「良いんじゃない?さやかは学年が二年で、御心君は一年だもんね」
「先輩としての面目が立ちそう」
傍らで話を聞いていた二人の提案に、美波先輩は一瞬だけ遠い目をした。そして、慈しむような、あるいは憐れむような声で告げた。
「……この前、アタシと二人だけの時に聞いたのだけど、さやかって、あんまり頭良くないらしいんだよね。この間の中間試験で三つも赤点取ったらしいし」
「「「…………」」」
沈黙が空間を支配した。
美波先輩が恐る恐るという調子で尋ねてくる。
「御心君、あんたの成績は?」
「……前回の中間試験は、全部八十点以上。(心を読むカンニングが特に刺さりやすい単純な暗記科目である)日本史については満点でした」
「さやかの方が先輩なのに、逆に御心君に教えられる展開になっちゃいそうだね……」
「そんな事になったら、ますますさやか先輩が病んじゃいますね……」
いくら心を読む事によるカンニング込みとは言え、かなりの高得点や満点の結果は出ているのだ。そんな俺が一度の定期試験で赤点を三つも取っているさやか先輩に「教えてください」と言うのはもはや嫌味だろう。
結局、俺たちは「完璧な悟君」という偶像を自ら壊し、学校をサボるという明確な「非行」に及ぶことで、彼女と同じ、あるいはそれ以下の地平に無理やり降り立つという、消去法的な結論に縋るしかなかった。
帰宅後、俺は自分の部屋で、暗闇に光るスマホの画面を見つめていた。
時刻は、深夜を少し回ったところ。指先が、わずかに震える。
俺に「あーん」をして、満足げに眠りについた時の、あの幸せに浸った寝顔。
もう一度それを見るためなら、俺は喜んで「正しい自分」を捨ててやる。
俺は、一言だけメッセージを打ち込んだ。
「明日も、風邪を引いてください」
即座に「既読」がつき、困惑した返信が届く。
「えっ? でも、もう熱は下がったよ?」
俺はさらに追撃する。
「ダメです。明日、学校をサボりましょう。……俺に、さやか先輩を連れ出させてください」
画面の向こうで、彼女がどれほど目を見開いているか想像に難くない。「真面目な悟君が、学校をサボる?」「私を連れ出す?」
彼女の脳内は今頃、未曾有のパニックと、それ以上に「新しい役割」への期待感で爆発しているはずだ。
「うん!分かった!私、明日も風邪を引くね!」
その返信を見て、俺は重い溜息を吐いた。
明日、俺は彼女と一緒に「悪いこと」をする。二人で学校をサボり、不良行為に手を染める。
それが、彼女に「悟君の悪事に付き合ってあげている彼女」という自覚を与え、同時に俺の「ダメな部分」を露呈させるための作戦だ。
歪んだ救い方ではあると思う。
論理的でもなければ、誠実でもない。もっと他に、彼女の心を真に癒やす方法があるはずだという予感は、今も消えていない。
だが、今の俺にはこれしか思いつかなかった。
「……今は、これをやるしかない」
暗い部屋の中で、俺は自分にそう言い聞かせた。
彼女を救うために嘘をつき、芝居を打つ。その欺瞞がいつか自分たちを追い詰めるかもしれない。それでも、明日彼女が「私が隣にいてあげなきゃ」と笑ってくれるのなら、俺はどんな場所へでも、彼女の手を引いて踏み込んでいくつもりだった。




