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24・あーん

「……はい、悟君。あーん」


 さやか先輩の手は、熱のせいか、あるいは極度の緊張のせいか、小刻みに震えていた。スプーンの上に乗ったプリンの塊が、その振動に合わせて危うげに揺れている。


 俺は、目の前に突きつけられたそれと、背後に控える「残り五個」のプリンパックを交互に見た。


 駅前のスーパーで、俺はこの六個入りパックを選んだ。量が多いから風邪が長引いても余裕があるとか、そんな理屈を並べて自分を納得させたはずだった。だが、ひょっとしたらそのプリンの山は、その効率的な判断が招いた最悪の自爆になるかもしれない。


「……さやか先輩。さっきも言いましたけど、これ、さやか先輩が食べるためのもので――」

「だめ。……悟君が、食べて」


 さやか先輩の瞳は、潤んでいた。だが、そこにあるのは熱による涙だけではない。


 俺が何かをしようとするたびに、彼女の脳内からは『情けない』『お荷物』『ダメ人間』という、自己嫌悪の爆音が響いてくる。彼女にとって、この「あーん」は単なる甘えではなく、自分を「役立たずの病人」から「彼氏を慈しむ彼女」へと繋ぎ止めるための、最後の一線なのだ。


 馬鹿なのか。それとも、風邪の熱で脳が混乱しているのか。


 おそらくその両方だろう。だが、今の彼女は間違いなく重症だった。身体よりも、その心が。


「……分かりました。食べればいいんでしょ」


 俺は覚悟を決め、差し出されたスプーンを口に含んだ。


 ひんやりとした甘さと、卵の濃厚な風味が広がる。美味しい。だが、これが六カップ分続くとなれば話は別だ。


 一個。


 二個。


 三個。


 さやか先輩は、自分が食べているわけでもないのに、俺が飲み込むたびに「ふふっ」と、熱で上気した顔を綻ばせる。


 その表情から、俺は思考を読まずとも感じ取っていた。


 二個、三個と空きカップが増えるたびに、彼女の中に渦巻いていたドロドロとした自己嫌悪のノイズが、少しずつ凪いでいくのが分かる。


「……次は、これ。はい、あーん」


 四個目。流石に胃が重くなってきた。甘ったるいカラメルが喉の奥にへばりつく。


 だが、俺は拒まない。拒めない。


 さやか先輩は今、必死なのだ。


「年上の先輩」として、「愛されているお姉さん」として、「彼女」として、何か一つでも俺に返そうと、この馬鹿げたプリンの山を俺の胃袋に与えている。スプーンを握る指先が白くなるほど力を込め、朦朧とする意識を繋ぎ止めて、俺に「愛」を与えようとしている。


 方法こそ、病人が彼氏にプリンを六個食わせるという支離滅裂なものだが、その根底にあるのは、純粋すぎるほどの献身だ。


 五個。


 六個。


 最後のカップの底、カラメルの最後の一滴までを掬い取り、俺の口へと運び終えた時。


 さやかは、勝戦を終えた騎士のような、あるいは全てを出し切った聖母のような、神々しいまでの満足感をその顔に湛えていた。


「……ふふ。……全部、食べてくれた」


『(よかった……。私、できた。悟君に、美味しいものを食べさせてあげられた。私は、お荷物じゃないよね……。悟君の、彼女で……いいんだよね……)』


 掠れた声と共に、彼女の意識が急激にシャットダウンしていく。


 パックが空になると同時に、張り詰めていた糸が切れたのだろう。さやかは俺の手からスプーンを落とし、パタリと枕に沈んだ。


「……全く。世話を焼いてるんだか、焼かれてるんだか」


 俺はベッドの脇に座り込み、深く、深く溜息を吐いた。


 胸が苦しい。


 プリン六個分、約一キロ近い甘味を短時間で摂取したことによる物理的な胸焼けは、想像以上に凄まじかった。胃のあたりがズシリと重く、脂汗が滲む。


 だが、それ以上に。


 俺の胸を締め付けているのは、もっと別の、救いようのない感情だった。


「……何やってんだろうな、俺」


 彼女を救うために、俺は「告白」という手段を選んだ。


 殺人を止めるため。彼女を闇から引き戻すため。


 彼女を凶刃から守るため、彼女を冤罪から守るため、俺はその後も彼女を救い続けた。


 だが、俺が彼女を救おうとすればするほど、彼女は自分の「無力さ」を突きつけられ、傷ついていく。


 俺が有能であればあるほど、俺が彼女を愛そうとすればするほど、彼女の自尊心は削り取られ、その空洞を埋めるために、今日のような無茶な「献身」を自分に強いる。


 俺が何かをすればするほど、彼女の闇は、より複雑に、より深く広がってしまう。


 この残酷な反比例に、俺は吐き気すら覚えた。プリンの甘さが、今はひどく苦く感じられる。


 ふと、横を見る。


 そこには、全てを忘れて、幸せそうに眠るさやか先輩の寝顔があった。


 その顔は、己の無力さにもがき苦しんでいるいる「絶望した少女」の顔ではなかった。ただただ、愛する者に何かを与えられたという事実に満たされた、年相応の、純粋な少女の顔だった。


 俺は無意識にポケットからスマホを取り出し、カメラを起動した。


 この、二度と見られないかもしれないほど穏やかな寝顔を、記録に残しておきたいという衝動。


 だが。


 レンズ越しに彼女を見た瞬間、俺の指は止まった。


(……違う。俺がやるべきなのは、これじゃない)


 写真を撮って、思い出として保存することじゃない。


 そんな「過去」の記録に縋ることじゃない。


 何度も、何十回も、何百回も。


 いや、何千回、何万回だっていい。


 この、幸せに満ちた顔を、現実の光景として俺の前に作り出し続けることだ。


 データの中に閉じ込めるのではなく、明日も、明後日も、その先も、実物の彼女がこの顔で笑えるようにすること。


 それが、彼女を無理やりこの世界に繋ぎ止めた、俺の取るべき責任のはずだ。


 俺はカメラを閉じ、スマホをポケットに突っ込んだ。


 そして、液晶を叩き、二つのメッセージを送る。


 一つは、さやか先輩宛。


『カギを元の場所に戻しました。お大事に』


 あえて、最低限のメッセージにした。プリンの礼ぐらいは書こうと思ったが、一気に六個も食べさせたという狂った献身のお礼をメッセージに乗せるのは、ある意味では彼女の恥を残し続ける行為に等しいので止めた。おそらく、風邪から治って正気に戻れば、彼女は「お世話出来た」という満足感よりも「悟君に大変な迷惑をかけてしまった」と自己嫌悪に陥る可能性の方が高いので、このプリン六個は「無かった事」として処理出来たら理想だ。


 もう一つは、美波先輩宛だ。


『今、さやか先輩の家を出ました。……美波先輩。相談したい事があります。明日、時間をください』


 一人では無理だ。


 俺の正論や、俺の超能力だけでは、彼女の心の奥底にある、この歪な欠落を埋めることはできない。


 あの快活で、それでいて俺たちの外側からさやか先輩を近くで見ているあの人なら、何か知っている可能性がある。今はその可能性に縋るしかない。


「……重いな」


 胃の重みか、それとも責任の重みか。


 俺はフラつく足取りで立ち上がり、静まり返った部屋を後にした。


 玄関を出て、赤い植木鉢の下に鍵を戻す。


 夜の冷たい空気が、少しだけ胃の重みを鎮めてくれた。


 さやか先輩の「爆音の愛」は、今は聞こえない。


 代わりに、俺の心の中には、六個分のプリンの甘さと、彼女の震える手の感触が、いつまでも消えない「胸焼け」として刻まれていた。

皆さまご存知だと思いますが、ここまででまだ24話です。まだまだ続きます。

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