23・看病?
さやか先輩の最寄り駅の階段を駆け抜けながら、俺は自分の心臓の音がうるさいのは全力疾走のせいだと自分に言い聞かせていた。
「……ったく、教える! 来てっ! じゃねーよ」
電話越しに聞こえた、あの泣きだしそうな、それでいて救いを見つけたような声。あれを聞かされて、行かないなんて選択肢は俺にはなかった。
駅を飛び出し、スーパーへ滑り込む。
お見舞い品を選ぼうと店内を歩いていると、ポケットの中でスマホが震えた。
「悟君、プリンを持って来て」
……重症だな、これは。
淡白なメッセージの文面からでも、彼女の「爆音の思考」が透けて見えるようだ。俺は溜息を一つ吐き、スイーツコーナーへと足を向けた。
そこには、黄色い「半額シール」が貼られた六個入りのお徳用プリンが鎮座していた。
(……これでいいか。量は多い方が良いだろ。風邪が長引いたら三個じゃ足りないかもしれないしな。味は……熱で麻痺してるだろうし)
一瞬、手を伸ばしかけて、思い直す。
いや、待て。ここで安物を買って、もし万が一、保存状態が悪くて腹でも壊されたらどうする。身体を壊す。それはつまり、看病の時間が増えるということだ。
「……甘やかすわけじゃない。病人だから、変なものを食わせて長引かれたら困るだけだ。これは効率の問題だ」
自分に言い聞かせ、俺はあえてシールの貼られていない、消費期限にたっぷり余裕のある通常価格のプリンを手に取った。追加でスポーツドリンクを三本。レジを済ませ、俺は「彼女の家」という未知の領域へと足を進めた。
住宅街の一角。教えられた住所の家は、驚くほど静かだった。
「玄関先の赤い植木鉢の下……あった」
無造作に置かれた鍵を拾い上げ、俺は呆れた。
「防犯意識、低いな……全くダメって程でもないけどさあ……」
独り言を漏らしながら解錠し、家の中へ。今日はさやか先輩の両親は夜まで仕事があるらしく、今、この家には俺とさやか先輩の二人しかいない。
勝手ながら洗面所を借りて、石鹸で入念に手を洗う。病原菌を彼女の部屋に持ち込み、これ以上彼女を弱らせるわけにはいかない。
二階へ上がり、「さやか」と書かれたドアの前に立つ。一瞬、異性の聖域に踏み込むという事実に喉が鳴ったが、それを「ここに来るまでの運動による乾き」として処理し、ノックをした。
「失礼します、さやか先輩。……入りますよ」
ドアを開けると、そこには「等身大」の女子高生の生活感が漂う部屋が広がっていた。
部屋の角のハンガーラックで揺れるカーディガンや、机の上の「足を綺麗にする方法」というタイトルの本。何より、学校やデート中での「さやか先輩」のイメージに近い、どこか体温を感じさせる散らかり具合。
だが、俺の意識はすぐにベッドの上の影へと切り替わった。
「……あ、さと、る……く……っ、ごほっ、げほっ!」
マスク姿のさやか先輩が、無理に身を起こそうとして激しく咳き込む。
その瞬間、俺の脳内に、彼女の「爆音」が津波のように流れ込んできた。
『(うあああああ! 悟君が来た! 本当に来ちゃった! 鼻は赤いし髪はボサボサだし、今の私、全然可愛くない! 恥ずかしい!でも嬉しい!ぎゃあああああ!)』
「……さやか先輩、寝ててください。病人なんですから」
俺は努めて冷淡に言い放ち、スポーツドリンクを取り出した。
「まず水分です。飲めますか?」
「……う、うん。ありがと……」
さやか先輩が震える手でボトルを受け取ろうとする。だが、熱で指先に力が入らないのか、キャップに手をかけたままガタガタと震え、結局開けることすらできなかった。
「……っ」
彼女の瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。
「……貸してください」
見かねてボトルを奪い取り、パキッ、とキャップを開けて手渡す。彼女はそれを両手で大切そうに抱え、少しずつ飲み始めた。
『(……うぅ、情けない。また悟君に負担をかけちゃった。蓋すら開けられないなんて……。悟君を支えたいのに、むしろ、お荷物になってるよ……。お願い……嫌いにならないで……)』
思考の声が、あまりに切実で、痛々しい。ぽろぽろと涙を流しながら、彼女はスポーツドリンクをボトルの四分の一ほど飲み干した。
「嫌いになったりしませんから、落ち着いてください。ほら、リクエストのプリンです」
泣き止ませるための特効薬を差し出すと、さやか先輩はゴシゴシと涙を拭い、掠れた声で言った。
「……うん。……ねぇ、悟君。あーん、しよっ」
「……は?」
思わず、素っ頓狂な声が出た。
「お願い……」
上目遣い。熱のせいか、それとも別の熱意のせいか、赤らんだ頬。
ここで無下に断って、変に心の声で絶叫されるのは御免だ。俺は「……はいはい。病人ですからね」と、介護に徹する覚悟を決めた。
カップの蓋を剥がし、スプーンで滑らかな塊をすくい上げる。
「ほら、口を開けてください」
俺がスプーンを彼女の口元へ運ぼうとした、その時だった。
「――えっ?」
視界がブレた。
さやか先輩が、驚異的な瞬発力で俺の手からスプーンとカップを奪い取ったのだ。
「……先輩?」
呆然とする俺を余所に、さやかはフラフラになりながらも、今度は自分の手でスプーンを構えた。彼女の指はまだ震えている。それなのに、そのスプーンの先は――俺の口元に向けられていた。
「……はい、悟君。あーん。……悟君に、私がしてあげるの……!」
『( 私は彼女なんだから! 悟君を助ける女の子なんだから! 悟君に『あーん』をして、癒やしてあげる存在にならなきゃいけないの! 立ち上がれ私!踏ん張れ尽櫛殻果! 風邪に負けるな!今!あーんするのよ!)』
馬鹿なのか。それとも、風邪の熱で脳が混乱しているのか。
おそらくその両方だろうが、今の彼女は重症だ。
自分が食べたいのではなく、自分が「与える側」に回ることで、失ったプライドを必死に取り戻そうとしている。そのあまりに必死な迷走っぷりに、俺は完全に毒気を抜かれた。
理屈じゃない。効率でもない。ただ、ボロボロになりながらも「彼氏のために何かをしたい」という、歪で真っ直ぐすぎる彼女の願い。
「……分かりましたよ。食べればいいんでしょ、食べれば」
俺は諦めて、差し出されたスプーンを口に含んだ。
ひんやりとした甘さと、卵の濃厚な風味が広がる。……半額シールに妥協しなくて、本当に良かった。




