22・風邪
体育祭という狂乱が過ぎ去った翌日。校舎を包んでいたのは、拍子抜けするほど瑞々しさを欠いた、いつもの「だるい」空気だった。
筋肉痛で足を引きずる生徒や、日焼けした顔を机に伏せて眠りこける連中。そんな光景が、祭りの終わりを残酷なまでに強調している。
だが、その澱んだ空気の底で、一つの噂だけが鮮明に脈打っていた。
「……聞いたか? 昨日、窃盗犯を御心が捕まえたらしいぜ」
「またかよ。少し前のいじめの時やこの前のいじめっ子の復讐の時もそうだったけど、あいつ、尽櫛先輩のことになるとマジでスゲーよな」
廊下を歩けば、好奇の視線が突き刺さる。正確には「御心悟が、またしても彼女である尽櫛殻果を救った」という、ドラマチックな尾ひれがついた物語が一人歩きしていた。
「御心さん! ちょっといいですか!?」
昼休み、新聞部の女子生徒に捕まった。彼女は目を輝かせながら、ボイスレコーダーを突きつけてくる。
「昨日の事件、どうして犯人が分かったんですか?」
「……いえ、ただの勘です。偶然ですよ」
「なるほど! 愛の力は理屈を超えるのですね! 素晴らしいコメント、ありがとうございます!」
勝手な解釈をノートに書きなぐる彼女を背に、俺は逃げるようにその場を去った。
彼女をどう立ち直らせればいいのか。答えが出ないまま放課後になり、俺はいつものように二年一組の教室へと足を向けた。けれど、そこにはあの騒がしい爆音の主の姿はなかった。
「あ、さやかなら、今日はお休みだよ。昨日無理しすぎたのか、風邪引いて寝込んでるみたい」
声をかけてきたのは、さやか先輩の友人、美波先輩だった。
久しぶりに一人で帰れる自由を手にしたはずなのに、俺の心はなぜか落ち着かず、むしろざわついていた。
無人の教室の片隅で、俺はメッセージアプリを開いた。彼女が起きていることを願いながら、短く、事務的なメッセージを打ち込む。
「体調、大丈夫ですか? お見舞いに行きましょうか?」
送信した瞬間に「既読」がついた。
鼓動が少しだけ速くなる。だが、一分経っても、五分経っても、返信されない。
その時、肩を叩かれた。すぐ近くにいた美波先輩が、画面を見せながらニヤリと笑う。
「見て? さやかから『お粥おいしい』って返信が来たよ。 食欲はあるみたいで安心だね」
――俺のメッセージは無視して、美波先輩には返信しているのか。
明確に避けられている。その事実に、胃のあたりがキュッと絞られるような感覚に襲われた。
(……せめて、断るなら断ってください。心配してるんですから)
少し強めの言葉を追撃で送ると、即座に画面を埋め尽くすほどの、凄まじい密度の長文が届いた。
「今すぐ会いたい!けど、今の私は鼻が真っ赤で髪もボサボサで、そんな情けない姿を見られるのは死ぬほど恥ずかしいし、また悟君に迷惑をかけて仕事増やしちゃうのが嫌だし、ああでもやっぱり来てほ」
その文章が、読み切る前に消えた。
【メッセージの送信が取り消されました】
お見舞いの提案に対して、それだけの葛藤をしていたらしい。俺はため息をつき、今度はメッセージアプリを閉じた。そして、迷わず通話ボタンを押した。
「……もしもし」
コールが二回鳴り、鼻を啜るような掠れた声が聞こえてくる。
「先輩。風邪引いてるときに、余計なこと考えないでください」
「さ、悟君……? 今のメッセージ、見たの……?」
「全部見ました。恥ずかしいとか、そんなの今さらですよ。俺、先輩にどれだけ振り回されてると思ってるんですか」
電話の向こうで、彼女が「う、うぅ……」と小さく呻くのが分かった。
「今から行きますから、住所教えてください!」
「……っ、教える! 来てっ!」
必死な、けれどどこか嬉しそうな彼女の声。
「いってらっしゃい」という美波先輩の応援を背に、俺は校舎を飛び出て駅へと全速力で駆け出した。




