20・盗まれた体温計
グラウンドに鳴り響いていたピストルの音も、応援団の太鼓の音も、今はもう遠い残響に過ぎない。
体育祭当日。秋晴れの空の下で繰り広げられた狂乱は、夕闇の訪れとともに幕を閉じた。
さやか先輩は、朝から宣言通りに張り切っていた。
「絶対、悟君に良いところを見せるからね!」
そう意気込む彼女は白組。対する俺は紅組。つまり、彼女が頑張るほど俺の所属する紅組は負けに近づくのだが、彼女にとってそんな勝敗はどうでもよかったらしい。まあ、俺も敵チームであるさやか先輩の事を、空気を切り裂く勢いで声を張り上げて全力で応援したからお互い様ではある。
ちなみにさやか先輩は、玉入れで一人で十個以上の白い球を叩き込むという、もはや執念すら感じる鬼神のごとき活躍を見せていた。
一日の大半を、俺たちは共に過ごした。
綱引きでは先輩の『悟君頑張って! 私の愛を力に変えて!』という爆音応援を受けながら泥臭く勝利を掴み、昼食の時間は二人で弁当を囲んだ。二人での一時間連続の保健係当番も、目立った怪我人が出ることもなく無難にこなした。
「仲が良いのう。若さゆえの特権じゃ、微笑ましいわい」
校医の佐藤先生に暖かい目で見守られ、俺は居心地の悪さに顔を赤らめた事もある。だが、隣の先輩は『一生私たちはラブラブするつもりです!若いうちだけじゃないですよ!』という、最早熱風に近い思考を撒き散らしていた。
そして、全ての競技が終了した。
全員が体操服から制服に着替え、あとは校門を出るだけとなった頃――事件は起きた。
救護所テントに残された備品の最終点検。片付けをしていた佐藤先生が声を上げた。
「体温計が一本足りない」
その一言で、救護所の空気が一瞬で凍りついた。
校内で連続窃盗事件が起きている今、備品の紛失は単なる「うっかり」では済まされない。救護所に残っていた保健係二十名が招集され、重苦しい沈黙の中で犯人探しが始まった。
「誰か、間違えて持ち帰ったりしてない?」
「ありえない。備品は常にケースに入れてたし、勝手に持ち出すなんて……」
ひそひそとした囁き声が、次第に一つの方向へと集束していく。
それは、確実な証拠に基づいたものではなく、集団心理が生み出した「標的」への悪意だった。
「ねえ……尽櫛先輩、当番でもないのにずっとここにいましたよね?」
「そういえば、最後の片付けの時も、担当の御心君の隣にずっといたし……」
「あれってもしかして、持ち出すチャンスを狙っていたんじゃないか?」
「一番最後の時間にいたわけだし、怪しいよね……」
一人が口火を切ると、堰を切ったように憶測が溢れ出した。
「さやか先輩が犯人だ」という根拠のない仮説が、あたかも確定した真実であるかのように、救護所内を支配していく。
「私じゃない!私はただ、悟君のそばにいたかっただけ!盗むなんて、そんなことするわけない!」
さやか先輩は顔を真っ赤にして、必死に声を張り上げた。
だが、周囲の冷ややかな視線は変わらない。むしろ、彼女の必死な弁明が、罪を隠そうとする焦りにさえ見えているようだった。
佐藤先生だけは「……違うのではないか?そんなことをする子には見えんがのう」と困った顔で静観しているが、多数決の暴力がさやか先輩を追い詰めていく。
(……うるさいな)
俺は黙って周囲の「心」を聴いた。
疑う者。便乗する者。関わりたくないと願う者。
その無責任な思考の濁流の中に、一人だけ、異質なほど静かで、冷徹な静寂を保つ者がいた。
『……よし、ばれてない。今回も成功だ。あとはこのまま、あの女に罪をなすりつければ終わり。馬鹿な奴ら。勝手に騒いで、勝手に犯人を決めてくれる……』
その声の主は、とある二年生の女子生徒だった。
彼女の脳内にあるのは、罪悪感の欠片もない、成功への確信。彼女こそが、校内を騒がせていた「チャンス」という名の悪意の正体だった。
隣で震えるさやか先輩の指先が見えた。
彼女の脳内からは『どうして信じてくれないの? 悟君、助けて……』という悲痛な叫びが、今にも壊れそうな音で響いてくる。
別に、先輩を守りたいわけじゃない。
ただ、自分の目の前で、こんな見え透いた冤罪がまかり通るのが許せないだけだ。
そう自分に言い聞かせ、俺は一歩前へ踏み出した。
「――あなた。怪しいですね」
その一言で、救護所の喧騒がピタリと止まった。
指を差された女子生徒は、一瞬だけ目を見開き、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
「……は? 何言ってるの、一年生。彼女が心配なのは分かるけど、どう見ても怪しいのはあの子よ?」
「いいえ。あなたが一番怪しい」
俺の声は、自分でも驚くほど冷徹に響いた。
俺には聞こえている。彼女の動揺と、その裏側にある「なぜバレたのか」という焦りのノイズ。
予期せぬ反撃に、彼女の顔からみるみるうちに血の気が引いていく。
「……あなたは盗まれた体温計の場所を知っている。そうですよね?犯人さん?」
救護所の空気は一瞬で凍りついた。
俺の瞳には、逃れようのない「確信」が宿っていた。




