19・無力さに対する絶望
事件の翌日。
本来なら活気に満ちているはずの校舎は、ひっそりと静まり返っていた。昨日の凶行を受け、学校は急遽臨時休校となったのだ。
今日登校しているのは、警察の事情聴取や学校側との面談が必要な、事件の当事者と関係者のみ。一階の会議室へと続く廊下を歩きながら、俺は自分の足音が必要以上に大きく響くのを感じていた。
「よお、勇者様。昨日はお疲れさん」
ふいに声をかけられ、俺は足を止めた。
そこにいたのは、昨日あの路地裏で共に暴漢を抑え込んでくれた、他クラスの男子生徒二人と、通報してくれた女子生徒だった。
「……ああ。昨日は、本当にありがとうございました。皆さんがいなければ、俺、今頃どうなっていたか」
「気にしないでください。あの状況で一人で前に出て啖呵を切った御心さん、本当に格好良かったのですから。あれがあったから、私たちも『やらなきゃ』って思えたんです!」
「流石、愛する先輩を守る騎士様だな」と続いて茶化され、俺は曖昧に苦笑いを返す。
彼らとの会話の中で、リーダーの女の今後についても耳にした。彼女は完全に「檻の中」に入ったらしい。傷害罪と銃刀法違反、それに余罪。少なくともさやか先輩が卒業し、進学や就職で足取りを追えなくなるまでは、彼女が俺たちの前に現れることは物理的に不可能になったという。
一つの悪夢が終わった。
だが、俺にはまだ、解決しなければならない「最大の問題」が残っていた。
「……悟君」
会議室の重い扉が開くと、そこには昨日よりもずっと小さく見えるさやか先輩が立っていた。
どうやら一通りの手続きを終えたようだが、その表情は幽霊のように青白く、瞳には生気が宿っていない。
隣に座り、二人きりになる時間を待ってから、俺は彼女の様子を伺った。
「またいじめっ子が来て怖かったですか?」
そんな安っぽい言葉をかけるつもりはなかった。そんなことは、聞かなくても分かっている。
俺の耳には、彼女の沈黙の裏側から漏れ出す、ひび割れたような心の声が届いていた。
『……怖い。悟君がいなくなっちゃうのが、何よりも怖かった。……でも、それ以上に、自分が許せない。悟君が殺されそうになっていたのに、私、足が震えて、声も出なくて……。大好きな人を、私は見殺しにするところだった……』
それは、後悔という名の毒だった。
彼女を苛んでいるのは恐怖ではなく、自分自身の無力さに対する絶望だ。
ふと、俺の頭の中に卑怯な考えが過った。
この事件をきっかけに、「君と一緒にいると命が危ないから」と別れを切り出せば、これ以上の好機はないのではないか。そうすれば、俺は念願の「普通の男子高校生」の日常に戻れる。さやか先輩という爆音から解放される。
……けれど、それは嫌だった。
そんな形で彼女を突き放せば、さやか先輩は一生、無力感を抱えたまま生きていくことになる。俺を守れなかったという傷跡を、自分を否定し続ける理由にしてしまう。
そんなの、俺が耐えられない。
「……先輩」
俺は、彼女の震える手をそっと握った。
さやか先輩が驚いたように肩を揺らし、視線を俺に向ける。
「あの。今度の体育祭……頑張ってください」
「え……?」
「それで、俺に『格好良いところ』、見せてくださいよ」
突飛な俺の言葉に、彼女は目を丸くした。
起きてしまった過去を書き換えることはできない。何もできなかったという事実は消えない。
だったら、未来にすべてを丸投げしてしまえばいいのだ。
「昨日は、俺が先輩を守りました。……いや、実際には周りのみんなに助けてもらっただけですけど。とにかく、昨日は俺の番でした」
俺は彼女の瞳を真っ直ぐに見据え、不器用に笑ってみせた。
「だから、今度は先輩の番です。体育祭で活躍して、俺に『流石は先輩だ』って思わせてください。汚名返上。名誉挽回。そのためのステージが、ちょうど来週にあるじゃないですか」
「悟……君……」
「俺、全部見ますから。先輩が誰よりも格好良く輝くところ」
さやか先輩の瞳に、じわりと涙が溜まっていく。
けれど、それは昨日の絶望の涙ではなかった。俺が投げた未来へのパスを、彼女がしっかりと受け止めた証拠だった。
刹那。
『――っ!! な、何そのフォロー!? 素敵すぎる! 格好良すぎるよ悟君っ!! あああもう、一生ついていく! 骨の髄まで愛してる! 体育祭、死ぬ気で頑張る! 誰よりも速く走って、誰よりも高く飛んで、悟君に惚れ直させちゃうんだからぁぁぁ!!』
鼓膜が物理的に震えたと錯覚するほどの、熱を帯びた「爆音」が脳内に帰還した。
さやか先輩の顔色が、みるみるうちに赤らんでいく。さっきまでの幽霊のような雰囲気はどこへやら、今の彼女は、俺が知る中で最も騒がしくてエネルギーに満ちた存在に戻っていた。
「……うん! わかった、私、頑張る! 悟君が惚れ直して、そのまま式場に連れて行きたくなるくらい、最高の姿を見せるからねっ!」
勢いよく立ち上がり、俺の手を両手でギュッと握り締めてくるさやか先輩。
その体温と、脳を揺らすハッピーな思考の奔流に、俺は思わず顔をしかめた。
(……ああ、やっぱりこうなるのか)
うるさい。本当に、相変わらずうるさい。
けれど、その耳障りなほどの爆音に、妙な安堵感を覚えている自分に気づき、俺は少しだけ困惑した。
俺の「平穏」は、またしても遠いどこかへ飛んでいってしまったらしい。
けれど、目の前で嬉しそうに、そして力強く復活を遂げた彼女の笑顔を見ていると、「まあ、いいか」とすべての思考を放棄したくなった。
「楽しみにしてますよ、先輩」
「うん! 任せて!」
静かな廊下に、彼女の元気な声が響く。
体育祭まで、あと数日。
俺は、戻ってきた日常の騒々しさに身を委ねながら、さやか先輩と共に、夕暮れの校舎を後にした。




