18・不便な超能力
目前に迫る銀色の刃。
俺の脳には、相手のどす黒い殺意が直撃していた。『心臓を刺す!』『ぶち抜いてやる!』――届くのは、そんな短絡的で凶悪な結末の断片だけだ。
相手が右足をどう踏み出し、包丁をどの角度で振り下ろすのか。そんな「具体的な動き」までは、心を読めるだけの俺には分からない。
俺は格闘家でもなければ、修羅場を潜った戦士でもない。ただの、他人の内面が少しだけ余計に聞こえてしまうだけの、ひ弱な男子高校生だ。
死ぬ。
本能がそう告げ、全身の血が指先から引いていくのが分かった。
「……っ、このおぉぉ!」
俺は半狂乱になりながら、右手に持っていた学生鞄を、全力で目の前の狂気へと投げつけた。
だが、リーダーの女は獣のような身のこなしでそれを最小限の動きで回避し、さらに距離を詰めてくる。鞄は虚しく地面を転がり、俺の目の前には、ぎらりと光る切っ先が迫った。
(――しまっ――!)
避けられない。
そう悟り、何とか急所を守ろうとした、その瞬間だった。
ドゴッ、という鈍い衝撃音が、すぐ近くで三つ重なった。
「がはっ……!?」
リーダーの女の体が、横からの衝撃で大きくよろめいた。
彼女の背中や後頭部に、俺の投げたものと同じ「通学鞄」が三つ、正確にヒットしていた。
「今だ!」
「うおおっ!」
すぐ近くから、野太い声が響く。
女が苦悶の声を上げ、手から包丁を落としたそのコンマ数秒後。すぐ近くを歩いていた二人の男子高校生が、弾丸のような勢いで彼女に飛びかかった。
「お、おおおぉぉ!」
俺も、考えるより先に体が動いていた。
二人に続くようにして、地面に転がった女の体に飛びつく。必死に彼女の右腕を掴み、細いアスファルトに押し付けた。
「離せ! 離せぇぇ! 殺してやる、殺してやるぅぅ!」
下敷きになったリーダーの女が、狂ったように暴れる。
その至近距離から、彼女の脳内にあるドロドロとした怨念が、津波となって俺の意識を飲み込もうとする。
『死ね、死ね、死ね、死ね! なんで私ばっかり! あんたたちも道連れだ!』
凄まじい「殺意の爆音」だ。あまりのノイズの激しさに、俺は耳鳴りがするような錯覚に陥りながらも、必死に彼女の腕を抑え続けた。
「……君、大丈夫か! 怪我はないか!」
一緒に女を押さえている男子高校生の一人が、荒い息を吐きながら俺に声をかけてきた。
見れば、彼らの制服は俺の学校と同じ物だ。彼らも下校中だったらしい。
「は、はい……。ありがとうございます、助かりました……っ」
「おい、警察! 早く!」
もう一人の男子が叫んだ先には、一人の女子高生がいた。彼女も同じ学校の生徒だろうか、震える手でスマートフォンを握りしめ、必死に状況を伝えている。
「……はい! 場所は、駅の近くの住宅街です!女の人が包丁を持って暴れて……今、同級生たちが押さえています! 早く来てください!」
どうやら、この三人が鞄を投げてくれたらしい。
もし彼らが通りかからなければ。もし彼らが俺に続いて勇気を持って鞄を投げてくれなければ。今頃、俺は冷たいコンクリートの上で血を流して転がっていたはずだ。
「悟君……! 悟君っ!」
背後から、悲鳴に近い声が聞こえた。
俺が「ここで待っていてください」と言った場所で固まっていたさやか先輩が、ようやく呪縛が解けたようにこちらへ駆け寄ってくる。
「さやか先輩……!来ちゃダメです!まだ危ない……!」
「で、でも……!!悟君、怪我は!?刺されてない!?」
彼女は俺の傍らに膝をつき、震える手で俺の肩や背中をさすった。
俺は「……大丈夫です、怪我はありません」と、自分自身に言い聞かせるように答えた。
その瞬間。
さやか先輩の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
彼女はその場に崩れ落ちるようにして、声を上げて泣き始めた。
(先輩……?)
俺は、彼女が今どんな思いで泣いているのかを知りたくて、無意識にその「心」を読み取ろうとした。
だが、読み取れない。
俺の真下で、今なお呪詛を吐き続けるリーダーの女。彼女が発する『殺してやる』という、周囲の空気を歪めるほどの凄まじい「殺意のノイズ」が、さやか先輩の繊細な心の動きをすべて掻き消してしまうのだ。
すぐ隣にいるのに。彼女の体温さえ感じる距離にいるのに。俺には、泣きじゃくる彼女の本当の心が、どうしても聞き取れなかった。
「……っ、くそ……!」
俺は、自分の能力の「不便さ」に、奥歯を噛み締めた。
五分ほど経っただろうか。
遠くから、重なり合うようなパトカーのサイレンが聞こえてきた。
赤色灯の光が路地の壁を激しく照らし出し、数人の警察官がこちらへ走ってくる。
「警察だ!動くな!」
警察官の手によって、リーダーの女に手錠がかけられる。彼女は連行される間際まで、俺とさやか先輩を呪うような言葉を叫び続けていたが、パトカーのドアが閉まり、彼方へ連行されていくと、その声も、そして俺の脳を苛んでいた「殺意のノイズ」も、ようやく途絶えた。
入れ替わるようにして、学校側にも連絡が行ったのか、遠くから必死に走ってくる人影が見えた。
「御心!尽櫛!無事か、二人とも!」
息を切らし、顔を真っ赤にして駆け寄ってきたのは、さやか先輩のクラスの担任でもある体育教師だった。
「……はぁ、はぁ……っ、連絡を受けて……すぐ……っ」
「だ、大丈夫です。先生こそ、大丈夫ですか?」
「こ、これぐらい……、何ともない……っ。お前が襲われたと聞いて……本当に驚いて……、とにかく、無事で良かった……っ」
肩を上下させ、尋常ではない汗を流しながら、俺たちの無事をその目で確かめようとする教師の姿を見て、ようやく俺は自分が「助かった」のだと実感した。
現場検証と、協力してくれた生徒たちへの事情聴取が一段落した頃。
俺とさやか先輩は、パトカーの脇で並んで立っていた。夜の風が、火照った頬を冷やしていく。
さやか先輩は、まだ時折肩を震わせながら、俯いていた。
やがて、彼女は消え入りそうな、掠れた声で口を開いた。
「……悟君」
「はい」
「……守ってくれて、ありがとう。私を……助けてくれて、本当にありがとう」
彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳は赤く腫れ、痛々しいほどに揺れている。
「でも……ごめんなさい。私……何も、できなかった。悟君が、あんなに怖い思いをしてるのに……私が刺されそうになったせいで、悟君が危なかったのに……。私、ただ見てることしかできなくて……。ごめんね……ごめんね、悟君……」
静まり返った路地に、彼女の謝罪と嗚咽が漏れ出す。
ようやくノイズの消えた俺の脳に、彼女の心が、痛いほどに届いた。
『……私が、弱かったから。私が、悟君に守られるばっかりの情けない先輩だから……。大好きな人を、死なせちゃうところだった……』
「……先輩。俺だって、鞄を投げたり、取り押さえることしかしてません。他のみんながいなきゃ、今頃……」
そう言いかけて、俺は言葉を飲み込んだ。
彼女は、本当に何もできなかったのだ。俺が「待て」と命じたとはいえ、恐怖で体が縛られ、ただ愛する者が凶刃に晒されるのを、地獄のような無力感の中で見ていることしかできなかったのだ。
そんな彼女に、今の俺が投げかける生半可な慰めは、かえってその心を深くえぐる刃にしかならない。
「……っ」
泣き続ける先輩にかける良い言葉が、どうしても思いつかない。
自分自身の、どうしようもない無力さに、俺は激しい苛立ちを覚えた。
他人の心が読める超能力。
そんなものがあっても、俺は、目の前で泣いている一人の女の子を救う言葉すら見つけられないのだ。
遠ざかっていくサイレンの音と、夜の冷気。
俺はただ、震える彼女の隣で、自分の無能さを噛み締めることしかできなかった。




