血虚・二三歳女性:治療編
血虚:血が不足した状態。眩暈や目のかすみ、肌の艶がなくなるなどの症状が現れる。女性では月経異常が現れる。
朝一番の患者さんの治療を終え、施術室の片付けをしていると、くぐり戸がカタンとなる音が聞こえた。新しい患者さんがやって来る合図だ。
「伊吹先生は……治療中かな」
手早く片付けを済ませ入口へ向かうと、白い狐が巻物を咥えて待っていた。伊吹先生の姿はない。やはり、治療に入っているようだ。
「いつもありがとう」
そう声をかけて巻物を受け取ると、狐は余韻に浸ることなく、くぐり戸の向こうへと姿を消した。この院も治療スケジュールは、彼らが取り仕切っている。いつも、伊吹先生か私が空いている時に患者を連れて来る。
「さて……どんな患者さんかな」
巻物を開き、内容を確認する。
矢野小春、二三歳の女性。
体操選手で、顔色は白く、肌につやがない。月経は約三ヶ月きていない。
簡潔な内容から頭の中で広げ、可能性を一つずつ整理していく。
若い女性で、月経の異常がある――ならば、この患者さんは私が診る方が良いだろう。
(年も近いし……同性の方が話しやすいよね)
神気は、この場への違和感を薄めることはできても、心の奥まで開かせる力はない。患者さんが言いづらいことを話してくれるためには、信頼関係が必要だ。
少しして、扉の鈴がチリンと鳴った。
入ってきたのは、すらりとした体つきの若い女性だった。細身ではあるが、腕や脚には、長年鍛えられた筋肉がしっかりとついている。
「すみません、初めて来たんですけど……」
「矢野小春さんですね。お待ちしていました。こちらへどうぞ」
笑顔で声をかけ、施術室へ案内する。彼女の表情に戸惑いはない。神気の効果がすでに現れているようだ。
施術室に入ると、矢野さんは素直にベッドへ腰掛けた。
「私は鍼灸師の杉山です。これからお身体を診ていきますので、仰向けで寝てください」
横になった矢野さんの手首に、そっと指を当てる。
(……細い)
指先にはっきりと感じるが、明らかに細い。血虚の際によく診る脈だ。
「次は、舌を見せてください」
舌を出してもらい、状態を確認する。
(白っぽい……淡白舌)
気血の不足、あるいは寒証に見られる舌だ。
脈、舌、そして巻物の内容を合わせると、彼女の状態は、血虚と考えてよさそうだ。
「矢野さん、普段のお食事について教えてもらえますか?」
「炭水化物とタンパク質を中心に取っています。体型維持も考えて、管理はしています」
「体操選手なんですよね。練習はどれくらいされていますか?」
「最近は、ほぼ毎日です。今年から時間が取りやすくなったので」
「なるほど、ありがとうございます。それでは、こちらの服に着替えてください」
施術着を矢野さんに手渡し、いったん施術室を出る。
(三ヶ月、月経が来ていないのは、練習量でのエネルギー消費が影響していそうだな)
診断はできないが、病院を受診すれば、運動性無月経と説明される状態だろう。
施術室へ戻ると、矢野さんはすでに仰向けになっていた。
「それでは、施術を始めますね」
使う鍼は、一寸一番と寸三の二番。治療手順は、伊吹先生から教わった。
まず、太腿の内側、膝の上にある血海穴に一寸一番を置鍼する。名前の通り、血の巡りに関わる経穴だ。
続いて、内くるぶしの上の三陰交穴、膝下の足三里穴に寸三の二番を使う。脾と胃の働きを助け、血を作る力を底上げする。
しばらく置鍼した後、ゆっくりと鍼を抜いていく。
「次は、うつ伏せになってください」
背中では、肩甲骨の高さにある膈兪穴に一寸一番を置鍼する。血の気が集まる場所で、血虚の治療には欠かせない経穴である。
伏臥位での施術を終え、もう一度、脈を確認する。
(……少し、太くなってる)
わずかだが、確かに変化はしていた。
「以上で施術は終わりです」
そう呼びかけると、矢野さんはゆっくりと起き上がり、ベッドの端で体を動かしてみせた。
「……体が軽いです。動かしやすい」
「良かったです」
ここから大事な話だ。彼女の状態を改善するには、治療だけでは難しい。
「矢野さん。お身体を診て分かったのですが、かなりエネルギーが不足しています」
「エネルギー、ですか?」
矢野さんは、不思議そうな表情を浮かべている。自分では、きちんと管理ができているつもりなのだろう。
「練習で使う量に対して、身体に残る分が足りていない状態です。月経が来ていないのも、その影響ですね」
「……練習のせい、なんですか?」
驚いたように、矢野さんは目を見開く。
「顔色や肌の状態が良くないのも、同じ理由です。このまま月経が来ない状態が続くと、骨が弱くなって、大きな怪我につながる恐れがあります」
真剣に伝えると、矢野さんの表情も引き締まった。
「どうすれば、良くなりますか?」
練習量を減らすのが一番早い。けれど、この人は、競技者だ。それが簡単でないことは、容易に考えられる。
「今の消費量を考えると、食事量を増やしても、体型への影響は大きくないはずです。まずは、しっかり身体を養えるだけの食事を取ってみて下さい」
「分かりました。食事、見直してみます」
自身の不調の原因と、その解決策が分かったためか、彼女の表情は少し緩まり、明るくもなった。
帰り支度を済ませた矢野さんを入口まで送り、御守りを手渡す。
「これを持っていてください。また不調が出たとき、白い狐が迎えに来てくれます」
「ありがとうございます」
「この後は、練習ですか?」
「はい。でも今日は……少し軽めにします」
そう言って、矢野さんは自転車を押しながら参道を下っていった。
伊吹先生なら、もっと踏み込んだ治療や、的確な言葉をかけていたかもしれない。それでも、今の自分にできることは、きちんとやれたと思う。
女性特有の悩みは、同じ女性である自分が診ることで、安心につながるはずだ。そこから信頼は生まれてくると思っている。
今日の治療を糧に、次に矢野さんが来たときは、もっと良い施術ができるように。
そして、この院を訪れるすべての人のために、成長し続けていこうと思う。
登場経穴
血海・三陰交・足三里・膈兪




