心陰虚・六三歳男性:患者編・後
心陰虚:陰液の不足によって心が滋養されなくなり、心の働きが乱れた状態。動悸や手足のほてり、不眠といった症状が現れる。
その日の昼食は、うどんだった。
(先生は、無理にやめなくてもいいと言ってくれたが……身体のためだからな)
いつもは一味唐辛子をたっぷり振りかけるところだが、今日はそのまま食べた。うどんは、何も足さなくても十分に美味しい。
だが、向かいに座る妻は、私の様子を不思議そうに見ていた。
「珍しいわね。あなたが辛味を足さないなんて」
「ちょっと、身体のことを考えてね」
これからは、わざわざ辛味を足すのは控えよう。元々の味を、そのまま楽しむのも悪くない。そうすれば、たまに食べる辛いものが、より美味しく感じられるかもしれない。
日中は、水分をこまめに摂るように心がけた。普段と違う行動をするたび、妻は驚いたような顔をしていたが、あの鍼灸院のことは話さなかった。何となく、秘密にしておくべきと思ったのだ。
夜ご飯も、妻にお願いして辛くないものを作ってもらった。辛味がなくても、妻の手料理は変わらず美味しい。それなのに、わざわざ辛味を足していたことを、今更ながら後悔した。
就寝時間は、いつもと変わらず日付が変わる頃だ。
妻を起こさないよう、静かに布団に入る。今日は治療を受けているとはいえ、本当に眠れるのかという不安は残っていた。だが、考えすぎても仕方がない。そう自分に言い聞かせて、目を閉じた。
だが、すぐに目を開けた。
手足に、あの煩わしい熱感がない。いつも感じていたものが、何もない。そのことに驚き、思わず目を開けてしまったのだ。
(……これなら、ゆっくり眠れそうだ)
そこから先の記憶はない。気がついた時には、朝を迎えていた。
寝巻は湿っておらず、寝不足感もない。隣を見ると、すでに妻の姿はなかった。
気持ちよく起き上がると、台所から物音が聞こえてくる。妻が朝食の準備をしているようだ。
「おはよう」
「おはよう。あなたが私より後に起きるなんてね。昨日から何かあったの?」
「ちょっと自分の身体と向き合ってみたんだ。長く健康でいられるようにね」
「それはいいことね」
そう言って笑う妻の顔色は、いつもより良く見えた。私が夜中に動かなくなったためか、彼女もゆっくり眠れたのかもしれない。伊吹先生は、私だけでなく、妻の身体まで整えてくれたのかもしれない。
「朝ごはんは何だい? 私も手伝うよ」
私の健康は、どうやら私だけのものではないらしい。これからは、自分のためだけでなく、妻の負担にならない生き方をしていこう。
そう、心の中で誓った。




