心陰虚・六三歳男性:治療編
心陰虚:陰液の不足によって心が滋養されなくなり、心の働きが乱れた状態。動悸や手足のほてり、不眠といった症状が現れる。
朝の朝礼が終わり、患者の来院を待っていると、白い狐がくぐり戸から入ってきた。口には巻物を咥えている。
杉山先生はすでに治療に入っているため、この新患は自分が対応することになりそうだ。
巻物には、簡潔に情報が記されていた。
岡田正敏、六三歳の男性。
手足のほてりによる不眠。胸部の熱感が煩わしく、すぐに目が覚めてしまう。寝汗が多い。
内容を確認してしばらくすると、院内にジャージ姿の男性が入ってきた。この人が岡田さんだろう。年齢のわりには若々しく、今も現役で働いているような印象を受ける。少なくとも、不摂生な生活を送っているようには見えなかった。
「すみません。こちらが鍼灸院の入口で間違いないでしょうか?」
「はい、合っていますよ。岡田正敏さんですね。私は院長の伊吹東弥です。ご案内しますね」
杉山先生が治療している施術室の前を通り、奥へ案内する。途中、岡田さんが不思議そうに尋ねてきた。
「なぜ、私の名前をご存知なのですか?」
「ここ来られる方の情報は、事前に我々へ伝えられています。不眠でお悩みと伺っています」
「ええ、そうです」
「そのあたりを中心に診ていきますね」
伊吹はりきゅう院があるのは、神気に満ちた高天原である。
足を踏み入れた者は神気により、この場での出来事に疑問を抱かなくなる。ここで行う鍼灸治療自体は現世と変わらないが、場所そのものは常ならぬ領域である。
患者が普通の鍼灸院のように、こちらに委ねてくれるのは、治療者としてありがたい。それが催眠に近いものであってもだ。もちろん、神気が人体に悪影響を及ぼすことはない。
岡田さんもまた、徐々に疑問を抱かなくなっていった。
施術室に入り、ベッドに座るよう指示すると、素直に腰を下ろしてくれた。
「それでは、お身体を診ていきますね」
「お願いします」
まずは、身体の状態の確認だ。岡田さんの手首に指を当て、脈を診る。
(細数脈か)
脈は、細いがはっきりと感じられる。打つ速さはやや早い。細い脈は血の不足を示し、速い脈は、体内に熱があることを示している。
続いて、舌を出してもらい、舌診を行う。
(舌尖が紅い)
舌の先は、心と肺の状態が現れる。紅色は、実熱、あるいは陰虚による熱証を表している。脈と照らし合わせると、陰虚によるものと考えられる。
(症状からすると、心陰虚だな)
証を導き出し、治療の準備に入る。その間を繋ぐため、岡田さんに問いかけた。
「岡田さん、お好きな食べ物はありますか?」
「そうですね……辛いものが好きです」
「どのぐらいの頻度で召し上がっていますか?」
「ほぼ毎日ですね」
「なるほど、ありがとうございます……それでは、こちらの施術着に着替えてください」
ベッドの下から施術着を取り出して渡し、いったん施術室を出る。
辛味は体を温めてくれる一方、摂りすぎると熱が体にこもってしまい、陰液を消耗させる。心はもともと熱を持ちやすい臓であるため、より陰液を消耗することになる。
岡田さんの不眠の原因の一つは、辛味を食べ続けているからだろう。
着替え終わるのを見計らって、中に戻る。
「では、治療を始めます」
使用するのは、一寸一番と寸三の二番の鍼。
まず、手首にある神門穴に一番の鍼を打つ。続いて、足首の少し上の三陰交穴へ二番鍼を打つ。どちらも経絡の流れに沿わせ、少し置く。
岡田さんは、ゆっくりと呼吸している。心の陰液が補われて、体内の熱がゆっくりと引き始めている。
頃合いを見て鍼を抜く。
「次は、うつ伏せになって下さい」
五番目の胸椎の横にある心兪穴へ、一番鍼を打つ。神門穴と三陰交穴と同様、経絡に沿わせて置鍼する。
しばらくして鍼を抜き、施術は終了した。治療効果の確認のため、再び脈を診る。
細かった脈はほどよくなり、拍動も穏やかになっている。治療効果は十分のようだ。
「以上で施術は終わりになります」
そう告げると、岡田さんはゆっくりと体を起こした。
「ありがとうございます……先生、私の身体はどうだったでしょうか?」
岡田さんは自ら、身体について問いかけてきた。自分の体と向き合う姿勢は、治療者にとっては嬉しいことだ。
「岡田さんの身体は、心の陰液が不足している状態でした。つまり水分が足りていないため、身体を冷やせず、ほてりや熱感が起きていたのです」
「原因は何でしょうか?」
「強いストレスが原因になることが多いですが、岡田さんの場合は食生活が関係していそうです。単純な水分不足もですが、辛いものの摂りすぎが考えられます」
「……思い当たる節はあります」
好きなものが不調の原因だと知り、岡田さんの表情が曇る。
「まずは、水分をよく摂るようにしてください」
「辛いものは、控えた方がいいのですか?」
「控えられれば理想ですが、楽しみも大切です。岡田さんにとって辛い食べ物が楽しみなら、私は控えるようには言いません」
「先生……」
岡田さんの表情が、少し和らいだ。
今日、初めて会った人だが、この人は自分なりのペースで、身体と向き合ってくれるだろう。こういう人は、こちらから指導するよりも任せる方が良い。
帰り支度が終えた岡田さんを、出口まで案内する。
「最後に、こちらをお渡しします」
スクラブのポケットから御守り取り出し、手渡した。
「ほう、無病息災のお守りですか」
「それをお持ちですと、調子が悪くなった時に白い狐が迎えてきます。その時はまたお越しください」
「ありがとうございます」
軽く会釈をして、岡田さんは扉を開けて帰って行った。
無理をして維持する健康より、多少の不調があっても負担なく過ごす方が幸福だと思う。
気になる不調は、自分たちが改善する。それが、伊吹はりきゅう院の役目だ。
登場経穴
神門・三陰交・心兪




